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神の国の価値観と誠実さ


今日は、初期教会の出来事から、私たちの信仰生活における重要な教訓について考えてみたいと思います。

神の国の価値観

私たちは日常生活の中で、「時間も、財産も、自分の命も、基本的には自分の自由にできるもの」という価値観の中で暮らしています。しかし、神の国の価値観はこれとは異なります。神の国では、私たちはすべてのものを神様から託された管理者として生きるのです。

使徒の働き4章32節にはこう書かれています。

信じた者の群れは心を一つにし、魂を一つにしていた。だれひとりその持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。

この御言葉は、初期のクリスチャン共同体の姿を描いています。彼らは自分の所有物を「自分のもの」と主張せず、すべてを共有していました。これは単なる共産主義的な発想ではなく、神様に対する深い信頼と、兄弟姉妹への愛から生まれた生き方でした。

このような見方ができるようになると、私たちは自分の持ち物を独り占めするのではなく、神と人々のために使うことができるようになります。これこそが、聖書が教える本当の豊かさなのです。

バルナバの模範

使徒の働き4章36-37節には、バルナバという人物について次のように記されています。

ヨセフという人がいた。使徒たちからバルナバ(訳すと「励ましの子」)と呼ばれていた人で、レビ人で、キプロス島の生まれであった。この人は畑を持っていたが、それを売り、代金を持って来て使徒たちの足もとに置いた。

バルナバは、自分の所有物を売って、その代金をすべて教会のために捧げました。これは、神の国の価値観に基づいた行動の美しい例です。彼は自分の財産を神様からの賜物として見て、それを神の働きのために惜しみなく用いたのです。

アナニアとサッピラの出来事

しかし、すべての人がバルナバのような純粋な動機で行動したわけではありません。使徒の働き5章には、アナニアとサッピラという夫婦の悲劇的な物語が記されています。

ところが、アナニアという人が、妻のサッピラと相談して、地所を売り、代金の一部を残しておき、それを妻も承知のうえで、一部だけを持って来て使徒たちの足もとに置いた。(使徒5:1-2)

アナニアとサッピラも土地を売りましたが、彼らは代金の一部を自分たちのために取っておき、残りだけを教会に捧げました。問題は、彼らがすべてを捧げたと偽ったことでした。

ペテロはアナニアの欺きを見抜き、厳しく問いただします。

「アナニア。なぜあなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、地所の代金の一部を自分のために残しておいたのか。それはもともとあなたのものであり、売ってからもあなたの自由になったはずではないか。なぜこのようなことを企てたのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」(使徒5:3-4)

ペテロの言葉は、アナニアの行為の本質を明らかにしています。問題は彼らがお金の一部を取っておいたことではありません。問題は、彼らが神と教会を欺こうとしたことでした。

サタンの誘惑と戦う

アナニアはサタンに心を奪われたと書かれています。サタンは常に私たちを誘惑し、神の国の価値観から引き離そうとします。エデンの園でのサタンの誘惑を思い出してください。「本当に神はそう言ったのですか」と、サタンは神の言葉に疑いを投げかけました。

サタンの誘惑は生涯続くものです。イエス・キリストさえも荒野で誘惑を受けられました。問題は誘惑を受けることではなく、誘惑に直面したときにどう対応するかです。

私たちは自分の力だけでサタンの誘惑に打ち勝つことはできません。だからこそ、聖霊の助けを求め、共に戦うことが大切なのです。聖書は私たちにこう教えています。

神に従いなさい。そして悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。(ヤコブ4:7)

教会の清さと神の臨在

アナニアとサッピラの物語は、教会の清さと神の臨在の重要性を強調しています。彼らの突然の死は、神の裁きの厳しさを示しています。この出来事の後、「教会全体と、このことを聞いたすべての人々に、大きな恐れが生じた」と記されています。

私たちは時に、神の恵みを当然のものと考え、神の聖さを軽視してしまうことがあります。しかし、この物語は私たちに、神の前に立つときの畏れと敬意を思い起こさせます。

教会は単なる建物や組織ではありません。聖書は教会を「神の宮」、「聖霊の宿る所」と呼んでいます。

あなたがたは神の宮であり、神の霊があなたがたの内に住んでおられることを知らないのですか。(第一コリント3:16)

これは、私たち一人一人が神の臨在の器であり、共に集まるとき、そこに特別な形で神が臨在されるという意味です。だからこそ、私たちは互いに誠実であり、神の前に正直でなければならないのです。

恵みの中で生きる

アナニアとサッピラの物語は厳しいものですが、私たちを絶望させるものではありません。むしろ、この物語は私たちに神の恵みの偉大さを思い起こさせます。

私たちは皆、完璧ではありません。時に失敗し、誘惑に負けてしまうこともあります。しかし、神の恵みは私たちの罪よりも大きいのです。聖書はこう約束しています。

しかし、罪が増し加わったところには、恵みはますます満ちあふれました。(ローマ5:20)

イエス・キリストは私たちの罪のために十字架で死なれました。そして、私たちが神の前に立つとき、もはや私たちを責める罪のリストはありません。私たちは赦され、神の子どもとされたのです。

この恵みこそが、私たちが誠実に生きる力の源です。神の愛に応えて、私たちは神と人々に対して正直に、開かれた心で生きることができるのです。

おわりに

今日の話が好奇心を持って聞こえた人や驚いた人がいるかもしれません。この出来事は1世紀の初代教会という異なる状況で起こったものですが、その本質的なメッセージは私たち現代のクリスチャンにも当てはまります私たちは神の前で誠実であるべきだということです。

私たちは、アナニアとサッピラほど極端な行動はとらないかもしれません。しかし、小さな嘘、隠し事、見栄やプライドのために真実を歪めること - これらはすべて、神との関係を損ない、教会共同体を傷つける可能性があります。

今日の御言葉を通して、私たち一人一人が自分の心を吟味し、神の前に正直に立つ決意を新たにしましょう。神の恵みを信頼し、聖霊の力に頼りながら、誠実さと清さを追求する生活を送りましょう。

そうすることで、私たちは個人としても、教会共同体としても成長し、世界に神の愛と真理を効果的に伝えることができるのです。

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