![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/158025214/rectangle_large_type_2_eccce22755cc1df49ceac9c5942c6513.jpeg?width=1200)
神の赦しと癒しの力
今日は、使徒行伝5章から、私たちの信仰生活に大切な教訓を学びたいと思います。
星野富弘さんの作品から学ぶ
始めに、星野富弘さんという方の詩に触れたいと思います。星野さんは、体操の指導中の事故で首から下が不自由になりながらも、口に筆をくわえて絵を描き、詩を書く日本の詩画作家として知られています。
彼の作品の一つに、「レンギョウ」というものがあります。そこには次のような詩が添えられています。
「私は傷を持っている。でも、その傷のところから、あなたの優しさが染みてくる。」
この言葉は、私たちの人生にも深く響くものではないでしょうか。人生には思わぬ困難や痛みが訪れることがあります。しかし、その傷を通して神の優しさを感じることができるのです。
使徒たちの証言と権力者たちの反応
使徒行伝5章27-28節を見てみましょう。
彼らは使徒たちを連れてきて最高議会の中に立たせると、大祭司は使徒たちを尋問した。「あの名によって教えてはならないと厳しく命じておいたではないか。それなのに何ということだ。お前たちはエルサレム中に自分たちの教えを広めてしまった。そして、あの人の血の責任を我々に負わせようとしている。」(使徒5:27-28、新改訳2017)
ここで私たちは、初代教会の使徒たちの証言に対する権力者たちの反応を見ることができます。大祭司たちは、使徒たちがイエスの名によって教えることを厳しく禁じていました。しかし、使徒たちは自分たちが見聞きしたことを証言し続けました。その結果、エルサレム中に彼らの教えが広まったのです。
大祭司たちが特に懸念していたのは、イエスの死に関する責任の問題でした。彼らは、使徒たちがイエスの血の責任を彼らに負わせようとしていると考えていました。
十字架の意味を理解する
ここで、十字架の深い意味について考えてみましょう。申命記21:22-23には次のように書かれています。
もし、死刑に値する罪を犯した者が処刑され、あなたが彼を木に掛けるなら、その死体を次の日まで木の上に残しておいてはならない。その日のうちに必ず埋葬しなければならない。木に掛けられた者は神にのろわれた者だからである。(申命記21:22-23、新改訳2017)
この箇所は、木に掛けられて処刑される者は「神にのろわれた者」であることを示しています。イエスは十字架につけられました。これは聖書的な観点から見れば、イエスが「のろわれた者」として扱われたことを意味します。
しかし、イエスは何も罪を犯していませんでした。それにもかかわらず、彼はのろいを受けました。パウロは、ガラテヤ人への手紙3:13でこのことについて次のように説明しています。
キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべて、のろわれたものである」と書いてあるからです。(ガラテヤ3:13、新改訳2017)
これは、イエスが私たちの代わりにのろいを受けてくださったことを意味します。イエスは私たちの罪を負い、私たちが受けるべきのろいを自ら引き受けてくださったのです。
悔い改めと赦しの招き
使徒ペテロは、使徒行伝3:19-20で次のように語っています。
だから、悔い改めて神に立ち返りなさい。そうすれば、あなたがたの罪は消し去られ、主の御前から回復の時が来て、あなたがたのためにあらかじめ定められたキリストであるイエスを、主は遣わしてくださいます。(使徒3:19-20、新改訳2017)
ここで重要なのは、神が大祭司たちに責任を負わせようとしているのではないということです。むしろ、神は彼らに悔い改めと赦しの機会を提供しているのです。イエスが十字架で死んでくださったからこそ、私たちは皆、赦しを受ける機会が与えられているのです。
私たちへの適用
では、この箇所から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。
自己防衛ではなく、神に向き直ること
大祭司たちは自分の立場を守ることに必死でした。しかし、神は私たちに自己防衛ではなく、神に向き直ることを求めておられます。私たちも時として、自分を守ることに精一杯になり、神の視点を見失うことがあります。しかし、神は私たちに悔い改めと赦しの機会を常に提供しておられます。傷を通して神の優しさを感じる
星野富弘さんの詩にあったように、私たちの人生にある傷を通して、神の優しさを感じることができます。困難や痛みの中にあっても、そこに神の愛と恵みを見出すことができるのです。イエスの十字架の深い意味を理解する
イエスは私たちの罪を負い、のろいを受けてくださいました。これは、私たちが神との関係を回復するためでした。この深い愛と犠牲を心に留め、感謝をもって生きることが大切です。赦しの力を信じる
神の赦しには驚くべき力があります。私たちがどんなに大きな過ちを犯したとしても、神の赦しは私たちを新しくし、解放してくれます。この赦しを受け入れ、また他者にも示すことが求められています。証言の大切さ
使徒たちは、困難や反対にもかかわらず、イエスについて証言し続けました。私たちも同様に、日々の生活の中でイエスの愛と赦しを証言することが求められています。
おわりに
私たちは今日、様々な傷や不安、罪の意識を抱えてここに来ているかもしれません。しかし、イエス・キリストの十字架と復活は、私たちに希望を与えてくれます。
イエスは私たちの罪とのろいを負ってくださいました。そのおかげで、私たちは神の前に正直に出ることができ、赦しを受け取ることができるのです。自分を守ろうとするのではなく、神に向き直り、その赦しと癒しを受け入れましょう。
そして、その赦しと癒しの力を、私たちの周りの人々にも分かち合っていきましょう。私たちの傷を通して神の優しさが染み出てくるように、私たちの人生を通して神の愛と赦しが世界に広がっていくことを願います。