主に奉仕するものの姿勢
教会共同体の中で女性教師が活躍していたエペソ教会。一方で自分たちが考えたことを好き勝手に語るようになっていた。
そこでパウロは女性が教会で教えることを許さない、とした。そのため字義通りに聖書の言葉を読まないようにすることが注意すべきポイントである。
本日は第8節以降にフォーカスを当てていく。
ここにおける執事とは、役職ではなく、奉仕者のこと。教会で奉仕をするものの態度について述べられている。すなわち、教会における誰であっても、ここで述べられていることが持つべき態度である。
日本語で謹厳とは、慎み深く厳格なこと。聖書においては気品がある、という意味となる。本物の品格を備えている人なら、二枚舌を使うことはない。いずれどちらからも信頼されなくなってしまう。社会と教会、牧師と信徒、などなど。
不正な利をむさぼらず、とはどういうことだろうか。恥ずべき利益を欲しがらず、というのが正確な訳となる。神の恵みによって仕事を与えられているのに、収入のすべてを自分の分としてしまうか、一部をごまかしてしまうということ。それが恥ずべき態度ということになる。そのためアナニヤとサッピラが命を取られることとなった。
信仰の奥義を保っている人とはなんだろうか。ギリシア語ではミステリオン。神秘、秘儀。聖書が伝えたいことは、復活の主イエスから与えられたキリスト教信仰そのものを指している。自分の力でキリスト教信仰を持つのではなく、神に応答するものである、信じる心。
復活の主イエスを信じる心とか、キリスト教信仰そのものと置き換えるならば、わかりやすくなる。そういう意味では、教会員全体が奉仕者であるということができる。
10節には審査をうけなさい、と書かれている。
ここでの執事の職というのは、奉仕者の務めと訳すのが適切。しかし実際は多くの年月を経ていたとしても、品格や献金の姿勢を持っていない人がいることがある。彼らが教会奉仕をすることは大きな負担となり、教会はつまづきとなる。
互いの霊的な成長を確認し合う事ができていない状態にあっては、教会の歩みを前にすすめることは難しい。教会の中に役職や地位を与えることではなく、教会員の間で証しされているかどうかを見てみよう、ということ。
パウロはこれらのことを語るために、この手紙を書いた理由を次のように述べている。
教会において福音宣教と働き形成を始めていく中で、明らかになる問題がある。テモテがエペソ教会に遣わされて、そこで初めて課題がでてきた。いつの時代であっても、その時代に立てられた預言者や牧師は、リアルタイムで問題について関わっていかなければならない。
テモテへの手紙の内容を理解しただけでは、今の課題をクリアしたことにはならない。ここで問題になっていることは、私達の教会ではどのようになるのか。
実際に自分で行為していみることが大切。私達が一人ひとり真剣に考えて解決のために祈ることが大切。そこで初めて解決への糸口を掴むことができるようになる。
霊的な課題、主イエスから自分自身に向けて新たに知らされたことはあっただろうか。自分に与えられた奉仕の務めについても、考えてみてほしい。御心に叶うように奉仕をしたいと祈り、生かされていく。
真理の柱とは、道であり、真理であり、いのちであるキリストそのもの。このキリストが私達を捉えてくださっている。生ける神の教会は、いつでも主がいる。命を語ってくださる。
滅びを語るのではなく、いのちを語っていく教会とならなければならない。