『心たちのすることは』~プロローグ~
新しいシリーズコラムの第1回目ですね。
私たちひとりひとりが持っている「心」。同じ出来事に遭遇しても、心の動きはひとりひとり異なります。
「頭では分かっているのに、心がついていかない。」そんな思いをしたのは、1度や2度ではないはずです。理屈では動いてくれない私達の「心」がしていることについて、考えることが今年の私達のテーマです。
さて、コラムの第1回を書くに当たって、みなさんと共有したい詩が一編あります。
読むたびに、私の心はヒリヒリと痛みます。茨木の言う「感受性」は私が考える「心」とニアリーイコールです。目に映るもの、耳に届く音、肌に触れるもの、外からの情報を受け取って感じ、考える「感受性」は「心」と言い換えることが出来るのではないかと思っています。茨木は「自分の感受性くらい自分で守れ!」と叱咤激励しますが、「心」ものびのびと働くためには守られ、育まれる必要があると思います。抑圧され続ければ、感じることが出来なくなったり、歪んだ環境に適応するために、歪んだ働き方をしたりするでしょう。
喜怒哀楽。つまり、喜び、怒り、哀しみ、楽しみ。それらを素直に感じ、表現することが出来るしなやかな「心」を、あなたは持っていますか? 最後に思い切り笑ったのはいつ? 思い切り怒ったのは?
私達が暮らす、いわゆる大人社会では、「心」が感じたままを素直に表現することは、感情的で、未熟だと考えられがちです。けれど、感情にはそれぞれ役割があり、意味があります。喜びや幸せのようなポジティブな感情だけでなく、不安や怒りにもちゃんと役割があるのです。人は不安だから、準備をしたり、他人に助けを求めたりして、生存確率を高めます。怒りを感じて、自分や大切な他者のために戦うことが出来るし、自分を守ることもできます。
感受性、つまり「心」を守る、とは自分の心が感じたことに耳を傾け、信じる、ということかと思います。別に、自分の感じたことを声を大にして叫ぶ必要はありませんが、感じていることを無視しないこと、なかったことにしないこと、が何より大切なのではないでしょうか。
私たちの「心」が感じていること、しようとしていることは何か、小さな声に耳を傾ける旅を始めましょう。
(M.C)
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