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本との対話


流石に、やっと、秋である。

私にとっては秋といえば読書の秋(ちなみに食欲は常にアンテナを張り巡らせているので悪しからず)。好きな作家はいるが読むジャンルは雑多、いわゆる雑食だ。読書についてはもともとなんでも読むタイプではあったのだが、師の一人がクライエントの話でチラリとでも出てきた作品は全て目を通しているのを知り、その影響で雑食に拍車がかかった。

本は不思議だ。漫画だろうと小説だろうとエッセイだろうと、読み手その人の思想や今いる環境や心象世界が垣間見えるような気がする。だから読書する時間は大切にしているし至福なのだが、近頃はめっきり読むスピードが遅くなった。量は変わらないのにスピードが遅いので、積読が増えるばかりである。

最近文章を読む速さがめっきり遅くなっていて我ながら驚いている。

 年齢的なものもあるとは思う。しかしかつて読んだことのある、内容を知っている本でも読む速度と読み方が変わっているのだ。そして不思議なことに、それが嫌ではない。

 以前は内容をひたすら詰め込むように読んでいた。味わうとか浸るとか、そんなことは二の次で、ひたすら知識や文章を詰め込んだ。それはそれでもちろん今の糧になっていると思うのだが、今のスタイルはその頃とはかなり違っている。どんな感じか言い表すのは難しいが、あえて言ってみれば、文章と対話しているような感じだろうか。

かつては初見の本は読み返したりすることなく、只管速く大量に読み取ろうとしていた。それが今は、行きつ戻りつ、しおりを挟んだページの少し前から読み直したりもする。3歩歩いて3歩下がることもある。気分的には大変もどかしいのだが、感覚としてはそんなに嫌ではない。

文章を読みながら誰と対話しているのかはわからないが、とにかく誰かと話しているのは確かだ。それは筆者や作者かもしれないし、登場人物かもしれないし、過去の自分自身かもしれない。その時によって違うような気がしている。

読書が対話になったのは、いつからだろうか。専門職として専門書や論文を読む時にはフラットな目線で舐めるように読む。ゆえに、対話とはならない。対話的読書と知識を得るための読書とでは、なんだか脳の使っている部位が違うような気がしている。

読み進めていくうちに、ああ、あの前の章のあれはここに繋がったのかな、と思えばそのページに戻り、書評になるとその評されている本までも読みたくなる。そんなふうにあちこちに心を飛ばしながら一言一言、じっくりと読み進めていくのだ。それが結構楽しい。

これは私が本と対話できるほどに経験や知識を積んだ成果なのか、なんなのか。

何にせよ本好きの感じる幸せの一つなのだろうと思えば、それもまた佳いものだと思える。

 

―恋文。青年は急いで読み、壮年はゆっくりと読み、老人は読み返す。

という格言はカナダの作曲家アンドレ・プレヴォによるものとされているが、まさに言い得て妙である。文章と対話するのも、この通りなのではないかと思う、暖かな秋である。(C.N)

 

 

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