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日常の力

「何処かに行きたい」

 特定の行きたい場所があるわけではない。此処ではない何処かなら、どこでも良いのだ。昨日から今日、今日から明日、とつながる日常を断ち切って、何にも縛られない存在としていられる場所。

 明日、仕事にいかなくても良いし、誰かの世話もしなくて良い。スケジュール帳に書かれた予定をこなさなくて良いし、ひとりで好きなときに好きなもの/ことを心ゆくまで味わうことができる。

 ただゆったりと呼吸をして、世界と、自分の境界線が溶けてゆくのを待つ。そうしたら私は、どれだけ楽で、自由で、そして・・・孤独だろう。

 仕事の時間から、家庭の時間に、うまく切り替えることができなくて立ち寄った駅前の喫茶店で、「何処かに行きたい」気持ちを抱えて、ただ座っていた。

 珈琲の香りに癒されて、少し落ち着いてから店内を見回すと、老夫婦が静かに働いている。使い込まれたキッチンは、隅々まで磨かれ、曇り一つない。ロイヤル・コペンハーゲン、ノリタケ、ウェッジウッド・・・食器に詳しくない自分でも分かる、美しいカップとソーサーが整然と並ぶ棚。レコードで流されるジャズの音楽。

 私は今、名前のないただの客で、この店の中は私の日常と切り離された場所だなあと思う。何もしないし、誰とも話さないで、ただ座って、キッチンでお湯が湧いたり、珈琲がドリップされたりするのを眺めていればいい。此処には、老夫婦の日常がある。

 彼らの日常の隣にいる私は、誰でもないし、楽で自由だけれど、寂しくはない。この人たちの日常は、なぜだか私を安心させてくれる。

 ふと気づくと、主人は立ったまま、ほとんど眠っているように見えるが、珈琲をドリップしている。何十年も続けていると、珈琲も寝たまま入れられるようになるのか・・・そう思って小さく笑ったら、急に元気が出てきた。

 私の日常にも、誰かを安心させる力があるのかも知れない。例えば、台所で夕飯を作る私の姿が、帰ってきた家族をほっとさせるとか。

 此処ではない何処かに行くのは、また今度。小さな喫茶店の老夫婦の隣で少し休んでほっとしたから、日常の流れに戻れる気がした。家に帰って、台所に立って、家族の時間の始まりだ。

(M.C)




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