カオスと灯台とボイジャー
二人とも、お返事ありがとう。カオスですか。大変な話になってきましたね。
そして、カオスと聞くとトポス(場所とか視点とかいう意味で使われます)が思い浮かぶ貧弱な連想力しかないわけですが。
三茶庵を構えて以降、トポスの大事さが身に染みてわかってきました。中堅になってそれはどうなんだ、というお叱りは置いておいて。
以前、部屋をどう整えるかという話がこのコラムで上がっていたと思うのですが、最近になって、枠組みの大事さが腹落ちしたんです。決まった場所、時間に約束をして必ずそこで会い、話を聞き、話をし、決まった時間に別れる。これ、めちゃくちゃ大事ですね。何を今さらって言わないでください。
人間関係上で、誰かを待つことと誰かに待たれることが健やかに達成され成就することは意外と少ない。恋愛然り、家族関係然り。そして自分のためだけに誰かが時間と場所と体を空けて待っていることもレアかもしれない。そのレアさが、トポス−居場所を形作るために必要なことなのだろうなあと思うのです。
前の手紙でカウンセリングは旅のようなものだと言ったけれど、二人の返信で答え合わせは最後なのだなあとか、カオスの中にあることや、混じり気あるものを楽しむとか味わうとかそういうことを保証されたような気がしてよしよし、と思いました。
それと同時に、カオスの中でも仮初の確からしさや手がかりは必要で、その手がかりにあたるのが枠であり我々なのだと思うのだけど、どうだろう。そう考えると、私はいい姿勢が取りやすくなったように思う。
理解は仮初でもよくて、固定されたものでなくとも良いとすると、理解したことがらは時々新しくなったり過去に立ち返ったりすることもある。だからこそ共倒れしない程度の揺れや揺らぎは許容されそうな感じがする。ほどよさを心掛けつつも、タイミングの悪い時には枠組みを手放さない強さが必要。そういう一見すると相反するものが同時に同じ場所で存在するのがカウンセリングなのだなあと、改めて思ったのであります。
カオスの中のトポス(という言い方が合っているかどうかはわからないけれど)という言葉が自分の中で浮かんできた時、同時に思い浮かんだのは夜の灯台のイメージでした。
言うまでもなく、灯台は、そこにあり続け照らし続けることで周辺に安全を提供する大切なもの。世界にはさまざまな形の灯台がありますが、大事なのはそれが灯台であるとわかることですよね。あと動かないこと。灯台が放つ光は信号だから動くものが多いけれど、灯台そのものは動かない。
あの灯は灯台だとすぐにわかることで得られる安心感ってあると思うのですよ。灯台があると言うことは港が近く、港が近いということは補給もできるということになる。東大の灯を見たその時に補給が必要かどうかは置いておいて。
これは多分、カオスにいる人にも同じことが言えるのではないかと。光に誘われるのは虫だけでなく、おそらく人もだと思うんですよね。そこに寄るかどうかはさておいても、補給できる場が近くにあるとわかるのが大事。
カオスじゃない世界なんて実はあり得なくて、何なら平和だって「戦争と戦争の間にある少しの休憩」という捻くれた解釈も成り立つこの世界で、どうにもならないように思える迷いや生きづらさを抱えている人にしか見えない明かりを、動かずに絶やさずに放ち続けることってものすごく大事。
そしてさらに灯台・海から連想を広げると、航海という言葉が浮かんできます。海を行くのが航海だけれど、宇宙を行くのも航海するというらしい。そして宇宙といえば私の大好きな小惑星探査機はやぶさが旅をし、ボイジャーが今も漂っているところです。ボイジャー2号には、他の生命体に人類の存在を示すゴールデンレコードが載せられているのですが、それをめぐってのエピソードがとても好きです。
ゴールデンレコードについてある人が「誰がエイリアンにそのレコードの再生法を教えるのだ」と皮肉たっぷりに聞いたところ、ボイジャー2号の開発者は「それは確かに教えられない。しかし再生法が分からなかったとしても、ボイジャーの存在自体が人類の存在を裏付けるのだ」と答えたと。
こういう話を思い返しながら、私にとってこのコラムはボイジャーのようなものかもなあと思うわけです。ここに書かれてることはよく分からなくても(もちろん読み手には分かりやすさを心掛けているし伝われーと思いながら書いてますよ)、この文章を放つことで、読み手であるどこかの誰かと書き手である私が、この世界に一人きりではないのだと互いにわかることが大事だな、と。
(C.N)
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