時ぐすりの使い手
平日の昼間の公園で、温かいおしるこを手に、ベンチに腰掛ける。入手先は、公園の目の前の「あんこ」屋さん。一年通して、おはぎとたい焼きを売っているけれど、夏は宇治金時のかき氷、冬はおしるこ、と季節のメニューが出るのが楽しみなのである。
駅に近いので、目の前の道を駅に向かう人々が足早に過ぎていくのだけど、公園の中だけはぽっかりと、時が止まった様な空間が出来ている。
時間は相対的なものだとアインシュタインが言う、その意味を正しく理解するのは難しいけれど、時間は状況によって流れ方が全く違うということは体感的に知っている。
会議と面接の間の移動で、時間がない!とどんなに急いでも、相談室に入る瞬間には「こんにちは〜」とゆっくりの口調と動きになる。
家事の段取りを考えて、あれもこれもとやっている時は短い時間でどんどんタスクをこなして満足感があるが、することがない大きな会議は、時計が止まったようになかなか終わらない。
今、この公園での時間は静止しているようである。10分前も10分後も、おそらく、特に何も変わらない。それが時間の流れが遅いのか、早いのか、が分からない。時間が経っても何も変わらないので、長い時間が一瞬のようだとも思えるし、小さな変化を起こすのに長い時間がかかるので時間の流れがゆっくりだとも言えるだろう。はて、早いのか遅いのか。
おしるこに意識を戻そう。熱くて口に入れるのが難しかったおしるこの熱が、じわじわと手に伝わり、冷えた両の手を温めている。湯気として空中に熱が溶けだし、いつの間にやら食べやすい温度になっている。目には見えないけれど時間は確実に流れたのだと感じる。
そして、何もしてないのに、ただ待っていただけで、おしるこは食べやすい温度に変わっている。
人生にもこういうことはままある。焦ってどうこうしようとしてもどうにもならないけど、時間が経つとなんとなく受け入れられるようになったり、ちょうどよく変化していたりすることが。
そう思ってのんびり待つ余裕があれば良いのだけれど、それが出来ないときが人の手を借りるときなのかもしれない。隣に座ってお喋りでもしながら、時間の流れを一緒に待つ。そういう手助けをさりげなくできる、時ぐすりの使い手になりたいものである。
(M.C)