アンチスポーツ、ノーモア部活動、体育撲滅運動を始めよう

アンチスポーツ、ノーモア部活動、アイアム体育撲滅運動家、なんてふざけているけどふざけていない。怒ってる。建設的な話に持って行きたいけれど、自分の鬱憤や嘆きから来る心情な気もしているから、誰かのためになるものではない。自分のため。なかなか言葉にできなくて、絡まって拗れているので、少しずつ解いていかないとなと思いながら10年以上蓋をしている。

スポーツが嫌い、部活動が嫌い、体育が嫌いというと、かなりの人が共感してくれるのではないかと思う。私はよくTwitterを眺めるが、そこには特に多くてすごく安心する。それに学校が嫌いを加えると、さらに増えるだろう。昔から深夜ラジオを好んで聴いているが、パーソナリティやリスナーには同じような人が多いので居心地が良い。

では私がなぜここで拗らせているのかというと、なんというかスポーツで進路を作ってきたからである。案の定手が止まっている。なんと言えばいいのだろう。

私はスポーツが好きではない、得意でもない。だけど大学はスポーツの名がついた学部に行き、卒業して体育の教員免許を持っている。大学にはスポーツで推薦進学し、県大会優勝や優秀選手賞が並んだ履歴書を持って就職した。クラブに誘われれば入ったり練習に参加したりした、だけど嫌いで苦手なのだ。

こう言うと反感を買うのではないか、と、もう誰も何も言わないとわかっているのに。この複雑な気持ちをずっと抱えていて、どう折り合いをつけたらいいのかずっとわからない。今更の話でもあり、だけど言葉にできないと生きてきた時間が言葉にならなくて、なんだか無かったことになっている。

なかったことにしたかった私は、地元を離れ、スポーツ関係の縁を全て切って、全く関係のない土地で、関係のない職についた。こうすると、本当に意味がなくなってしまうので、まあ自業自得という。

学歴や経験を利用して、大手だったり地元の会社にでも入り込めば、全てを肯定できたのかな。でも私は就活ができなかった、自己分析ができなかった。自分が何を思っていて、何を思っていないのか、判断がつかなかったからとにかく逃避。全て丸投げして、キャリアセンターの人の紹介に全乗りして福祉の仕事に就いた。

かけ離れた仕事で、みんなが平等で大切にされるべきという信念に共感した。でもスポーツという実績に乗っかってしまった分、スポーツが好きだという目で見られる。利用すると、またその目に縛られて辛くなる。会社というのはスポーツと親和性があって、だけど私は吐き気がするほどそれが嫌い。

今は幸いなことにスポーツに接する機会はない。自分でラジオ体操をしたり、散歩をするくらいだ。とても健やか。1年前はスポーツをしてきた自負のようなものが邪魔をしていて(それが邪魔だったことは当時は気づかないものだ)、つい追い込んでしまう。

心拍数が上がるとか、筋肉が痛むまで、何か苦しい痛いというとこまで限界を攻める事こそが運動だと思っていた。そうしないと意味がないのではないか、最大値を出さないとやる気も起きない、やる意味がないことなんてやりたくない。

でも何度も何度もそれで続かないことを実感し、ほぼ寝たきりのような時期を経て、自分はもうスポーツに追いかけられていないことに気づいた。今の私はスポーツをするような身体ではない、なのに頭だけがその記憶を保持して体を痛め付けようとしていて、あの時の、何もかも投げ出すストイックな自分をイタコのようにわざと降ろしたりして、奮い立たせようとしているのはなぜだったのか。その生き方をしてこそ、社会の中で成功していける。頑張っていないから、自分はできないままなんだといったような無意識。

1日を全力で走り抜けて、次の日は前日よりも良い自分に。成長、努力、そんな言葉は、高校が終わった時点でアレルギーのように、聞くだけで吐き気がするくらい嫌いだったのに。嫌いだけど、その言葉を否定する人間はいなかったから、同調できない自分はやっぱり抑えていて。口では頑張りたくない、楽しくやりたい、と言うけど、スポーツで得られた立場からは逃れられないし手放せない。依存状態である。

同調してくれた同級生は本心から言ってくれていたのか、本当は頑張りたかったのではないか、嘘をつき続けることはできなくて漏らした言葉に寄り添ってくれたのではないか。だけど能天気に大学生活をつるんで楽しむことも許せなくて、自分の中でダブルスタンダード。その子達ともだんだん距離を置くようになって。これはふと思い出してこの頃辛くなるネタだ。

自分の気持ちを汲み取れなくて幽霊のように過ごしていた、本当に自分がどうしたいかがわからない。

スポーツはいくら気晴らしが語源といったって、戦いであり勝利至上主義、実力主義で椅子取りゲーム、指導者と駒、人間は決して平等ではない。頑張らないといけない立場に追い込まれると、そういう自分が降りてくる。

20代は自分はまだ、もしかしてスポーツが好きなのではないか?という望みを捨てられずに何度も何度も挑戦してはモヤモヤとした気持ちになり、まあそれが普通だしなという心の声で惰性のように続けていた。しがみついていた?

続けているんだからきっと好きなんだよ、とか。でも心の中では、とか。そいういう言葉ばっかり返ってくる。しまいには叱られたり怒られたり。好きじゃないと言えるのなら言えていたし、辞めていた。だけどその頃の自分には居場所がなくて、拠り所も未来も見えない中、周囲からの承認が得られて褒められる方法がスポーツだった。

だって周りの人はスポーツが好きだから。好きで道を進んできているから、そしてその欲しくても得られないものを自分が持っている立場にあるから。本音をいつも隠して過ごしてきたら、喉がつっかえてなかなか思ってることが言えなくなった。

さっきNHKのラジオニュースでマルチスポーツを推進するスポーツ庁の話を聞いたから、こんなことをつらつら書いているのだ。本当にイライラした。

まず、親が部活動をやらせるのはなぜなのか。さまざまな経験を積むことができることを、とても良い価値として宣伝していたが、本当にそうなのか?望んでいることが手に入ることはいいことだが、望んでない経験をいくらしたところでありがた迷惑ではないか?

そして、あなたの子供はスポーツ選手にはならない。スポーツで生活ができる人はこの日本でいくらいるか調べた方がいい。好きなことの先に、生活ができない額の仕事しかないのになぜ背中を押して励まし、子供と過ごす時間を手放すのか?

大人であり、視野が広い保護者であれば、大会に勝った、その後を説明すべきだし、のめり込んだ時には止めるべき立場にあるのではないか。なのに大体は、自分の先生としてのやりがいや立場がよくなり、達成感も得られるためか、生徒たちの要望を聞いてさらには背中を押したりする。

個人のスポーツならまだ良いかもしれない、集団スポーツなら個人として実績をその先の進路へと引き継げるわけではない。無責任すぎないだろうか。

親というものは、大人というものは形骸的であり、毎日に追われて先のことなんて考えられないのが実情なのかもしれないが。

応援というのは決してありがたいものなんかじゃなかった。ただ乗りで能天気で気楽なもんだな、関わってくんなよ口出すな、あんたらのためにやってるわけじゃないのに涙なんて流されても搾取されてるようにしか感じない、なんて決して応援される側は言えない。

スポーツや部活動は指導者、審判、運営に多くの人が土日を潰して関わってくれる。そういう無報酬の奉仕によって成り立っている部分があるからこそ、仕組み的に絶対に口にできない。誰も言わない。そんな卑屈なことを思っていない聖人が多いのだろうが、自分はそうは思えなかった。

サッカー観戦や野球観戦がにこやかに楽しくできる人間に、どうしてもなれない。関係ないじゃん。でも金のため。

私の生まれた地方の子供は選択肢が少なく、関わる大人も家族以外ほぼ存在しない。実際身の回りに大卒の大人はいなかった。部活動ではなく勉強で大学に行けるのは、塾に通わせてもらえるような受験経験者の子であり、町の子である。

その選択肢が頭にない自分は少年団で年上の子達に優しくしてもらえるのが嬉しく、中学生になれば部活動で遠くに行けることが楽しく、会ったことのない他の学校の子と手紙を交換し友達になれるということが楽しくなった。

高校を選ぶということも、結局その年上の子達以外に憧れるものがなかったからだ。目の前の居場所を取った、ちやほやしてくれて結果が出やすい部活動ではなく、受験というシステムがあって勉強すれば行きたい大学を選ぶことができるんだと、言ってくれる様な大人は周りにいなかったから、自分で選び取れなかった自分の責任でしかないのだけれど。なりたいものがなかったから、大人の働き口は公務員しかないと思っていた。進路を考える時、お金の話はされないのも疑問だ。

部活動のために進学したのは専門職系の高校だったが、張り出される求人から選ぶ方法しか提示されない。文字と給与以外の情報はなく、女の子には昇進の機会もないような職場が与えられて、薬局や農協や役場や、そんなところしか選択肢がなく、そういうところも当時は立派で良く見えた。そこに就職していくのは自分とは比べようもない優秀な子達であり、部活動も資格もとても努力した人たちが進んでいく。もっと多くの仕事の種類があるはずなのに。

これは愚痴になってしまった。結局は自分が望まない限り、道を掴み取ることはできない。望んでも掴み取ることはできないけど、望まないと望まない方向へと流れていくしかない。

本当は高校の全員部活動強制加入制度に疑問を投げたかったのに、曲がってしまった。楽しくできないとわかった時点で私は自分を変えるのではなく、やめるという選択を取らなければいけなかった。

自分の高校は就職のため、学校自体の評判や卒業生の箔をつけるために、全員部活動加入を誇っていた。そんな中で、推薦で入るとやめられない制度もあり、やる気がないならやめろだの叫び出す教諭が多かったが、形骸化したパフォーマンスでしかない。本気で言っているのか、けしかけているのか生徒は判断がつかない。変われ、とよく言われてきたが、変わる必要なんてなかった。勝つために大切なものを捨てて無理やり何かに合わせて変化させるなんて、間違っている。

本当に早く辞めればよかった。早くに辞めていたらこんなに苦しんでいない。若い子供のような時に、自分のために頑張れない、誰かのためにしか頑張れなくなったら、やめるべきだ。10代の子供相手に、自分のために頑張れなくなったら、人のために頑張りなさいと、自分の人生訓をたれたクソ教師は狂っている。

顔を見たら刺してしまえるくらいに恨んでいるから、私は地元のコミュニティーには帰れない。大人、という立場で、感謝や労りを述べなければいけないと思うと、ワナワナと怒りが湧く。一度同級生に会わされたが、そこで作り笑顔を浮かべた自分を本当に呪っている。

終わってから、そうだった、何か抗えないような学習が身体にされている様な感じがして、気持ち悪くて仕方がない。感謝していない素振りを見せる人間はそばにいない、口では馬鹿にしてメチャクチャにしていた同級生が胡麻を擦っているのは、本心ではないのかもしれないが、それは傍目ではわからない。

それが大人になるということだと言われて信じようとしていた時期があったが、全てを飲み込む努力をしていておかしいと思った。女だからなのではないか、教師は男であり権力がある立場だから暴言を吐いてもいい。優しい言葉は気持ち悪い、照れ隠しだ。クソだろ。

子供はクソ大人に気付けないし信じてしまう。親もそれに乗っかって応援なんてしないでほしい。土日を返上したり忙しい中見に来てくれることに感謝していたが、それは感謝するように説得や学習させられた結果であり、頼んだわけでもなく、それ以外に仕事があるならそれでいいだろう。説明なく、やる気を求められ、厳しさを求められ、会話や説明や学習なく、とにかく練習するだけの不毛。科学的根拠のない練習。

やめた方がいいですよ。将来ないから。夢なんかを子供に託すな。できなかったことをできるようにさせるな。それはそばにいる大人の喜びや達成感のために、子供が無理をした結果だ。

親は子に言葉にする練習をさせろ。対話し、世の中にどんな仕事があるのか一緒に考えろ。お金を得て生活をしていかないとならないことを伝え、楽しみを見つけて人生をなるべく長く楽しく過ごしていくために、休む方法や計画の立て方、悩んだときにどうしたらいいか子供と話せ。

教師は情報収集や学ぶ方法を教え、場を作るだけだ。それ以上するな。親はそれ以外求めるな、新卒で教師になるような人間は偏っていて、基本学校や自らに妙な自信があったり、自分の事情をあてがってくる人間ばかりだ。いくら学んでいても、自分の達成感や立場のために子のためにならない判断をする。なぜなら集団を統率することが仕事だから。だから謝れないし訂正できない。

部活動なんかやらせない方がいい。体育の話できなかった。学校では指導という義務がある時点でスポーツは存在しない。大嫌いだ。以上。






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