オードリーとオールナイトニッポンが支え
考え事をして眠れない時、頭でぐるぐるといろんなことが回る時に
試して良かったことが
眼球を片方に目一杯寄せる
と不思議なことに何も考えることができない
しんどいには変わりないが面白いが沸いてくる
目が冴えてしまうけどね
何か説得力のある理由があったはずだけど覚えていない
面白いと言えば、藤井青銅さんが記事を出してた
我が物顔で乗せられて伊集院さんに顔写真の許可とったのかな
目の前が白くなるようなことが面白いんだって
ひらめきとか感嘆とか切ないとか驚きとか
笑いだけじゃないって
話すことにすごく難しさを感じていて
だからラジオが好きなんだけど
どうしたら人を楽しませる話ができるのか
小学生の時にそれをすごく必要とする時期があって
歳を重ねるにつれて知らない人に会うことが増えて
そういう人にどう自分のことを話せば良いのか
どうしたら自分といる時間が楽しいと思ってもらえるか
ずっと考えてた
ただし自分の費やした時間に比べて
上達が遅すぎるので得意じゃないのだろう
自分のことを語ることがいまだにできないし難しい
勘で進めそうな一歩目すらどこに足掛かりがあるのやら
分からない
ただひたすらに他人の話を聞いて掘り下げる
それについては大変上達した
興味深いと思える性格と話の筋を逸らさない忍耐力
多分プロだと思う
プロになれるだろうな
聴く側として過ごした時間誰にも負けねえと思って
いろんなことで生活大変な人の助けになる仕事した
多分一度だけど具体的に褒められたから
受け身ってことが良い方に出る仕事ではあった
他人の人生を聞くことって自分の人生と比べて自分と向き合うことにもなるから
自分の気持ちに聞き耳を立てるにはちょうどいい
だからTwitterに住んでる人になっていたここ10年ほど
同じものを見て他人がどう思うのか、自分の思ったことと比べてどれほどのズレがあるのかを確かめずにはいられない
確かめてしまう前に言葉にするけど、声小さすぎてかき消されて流されていく
先月からSNSやめた
自己というものを広げ切った
確立する職業についている人は見ないよね
自分の好きと思うものや楽しいって思うもので周りを埋めたい
目に見えるものしか自分の身体から発信されるものしか
価値として他人に提供することはできないと今私は思っている
感覚的に
頭の中だけスマホの中に入って
色々なことを考えて自分を探してみた
そうでないと自分の身体は田舎の辺境地にあるエンタメとは繋がることもない場所にあったから
本を読んで色々な場所へ身体を飛ばしたかった
接していないと飛ぶこともできない、飛ぼうとする気持ちすら感じられない
歳を経て本がインターネットに変わった
外に出ないと田舎の辺境地の魅力も説明ができない
どういう違いがあって魅力的なのか語ることができないから
これまでが他に好きなものがあるのではないかと探す時期だったことが終わってみてわかる、終わってみないと分からないものがあるんだね
10代の時なぜって思ってたことも実際に進んで過去を振り返ることでしか理解することはできないんだね
若い年代に歳を取った人間たちが合わせる必要もない
ただ人間として生まれたよしみで、若くてかわいいな、かわいそうだなっていう視点で接してくれていたんだろう
面白いか分からないものを見てもう、好きかどうか自分に問う余裕がない
オールナイトニッポンのパーソナリティは
いつもなんてことない話を興味深く話してくれる
驚くようなすごい話なんて滅多な日常起こり得ない
有名人もおんなじ
でも一般人と違うのは
自分の身体のそばに輝く結果や他人の目に晒される仕事があること
私には何もない
Twitterの自己紹介に綴れるような肩書きがない
芸人です、ミュージシャンです
そういう軸としてるものがあっての発信だから魅力がある
自分の身体がTwitterに埋まっている自分とは違って
現実を懸命に生きる身体でネットやラジオや媒体に顔を出してくれている
決してお仲間ではない
ネット上に自分が顔を出して同じプラットフォームに登れるような感覚
それは作られた仕様、そう思わされている策略
自分が現実を一生懸命生き抜いてこなかったとは言わないが
舞台が違えば場所も違う
その違いをわきまえて、単純にその人が作る時間や空間が好きだし
その一端を一般人として楽しいという思いだけで享受できることを喜ぶ
仕事だと思うことでレベルは上がるけど一気に輝きや楽しみは失われた
時間をかける努力するのは当たり前
仕事だからこそやりたくない時でもタガを外してやれたけど
結果が出ないと続けられない
好きでやっている人が羨ましい
もう嫌いだけど立場を保つため生きていくために続けている
得があるから
そういう存在のものを自分はなかなかやめられなかった
やめた時不安が強くなって何も動けない人間になってた
やめられたことはとても勇気になった
自分って辞めることができるんだと
ただしプレッシャーや叱咤激励みたいな
そういう管理者がいないと指先数ミリも動きたいとも思わない
生きたいとも思わない
だから助けを求める気にもならない
助けてほしいと思ってないから
ただ寝て動かずに生きていくことはできなくて
なんとか鞭を打って
自分の怠惰を責めながらゾンビのように
怠惰を人には言えないのでお金で解決できるところは安心する
自分のまともさを継続させ、必死に普通に合わせる
大人になると体力が落ちて、鞭を打つこともできなくなってきた
元気になった時にすごく働いて
辞めてその無理をした身体を癒す生活で
本当に今後生きていけるのかな
今日は日曜日
自分に鞭を打てる日ってのがあって
それは天気なんだよね
たまたま朝に起きれた時
日差しが真っ直ぐしっかりしている煌めくような日がある
そういうものに支えられてなんとか今までやってこれたんだろう
海とか、山とか、川とか
たまにそういうものがみたいなっていう日が自分の場合くる
過去先の見えない中で頑張ってきたから
ただただしんどいのを誤魔化してなんとか眠って何もしなかったけど死ななかったから
その過去データで2回目だ、3回目だって
たいしたことないって思えるようになり
過去データがないまま生きるから10代20代ってきついんだろうね
ただ大人の庇護があるうちに、親の務めと思ってもらえるうちに
背伸びをしないで自分の価値も減らないから
辛いことや大変なことくだらないことでつまづくような人間だってことを
言えたらな
どうして子供の頃って自分を子供と扱われることに嫌悪を抱くんだろう
血が沸き立つような嫌悪
一人の人間として扱われることが嬉しかったみくびらないでほしかった
視野が一定に狭められているから
ルールがあるから
それに乗っていれば安心で自分は大丈夫だと思えたのかもしれない
学校や親の守りが終わってしまえば
ルールや当たり前やそんなものよりも
金を稼いで生活をすることが最優先
ルールを守っていたとしても健やかに生きていけるわけじゃない
だからみんな捕まるし、捕まってもいいんだ
生きていることが正解になる
生き残った人、子供を作るくらいの楽観的や縁や適当さやなんでもできる万能さや
そういう人でまた子孫が作られていって、
たまに生まれる冷静でしっかり物事を考えて
自分のできることだけやるミスがない保守的な人ほど
降下していく世の中で子孫を残さずに終わりを迎えていく
圧倒的に何も考えない人が正解の世の中
プライドを気にせず動物的に生きる人が強い、結局は
ただし、どこに強さを持つか一概には二分できないのもわかってる
冷静で慎重だけど家族には憧れがあるから人間に対しては積極的とか
楽観的多動で仕事で失敗をしすぎて人間と接することが怖いとか
ということは仕事でも冷静で不安症で慎重で、人との関わりもストレスになる一定の人々が
生きていくのは大変ですねっていう話ですかね
なんでこんな考えの点に立ってしまうんだろう
立たない選択もできるはずなのに、必要に迫られてこういう凝り固まった考えに至っている気がする
自分のマイナス面に理由が欲しいんだ
ただただ存在するのはしんどいから、なぜ存在するのか理由が欲しい
なぜ太陽が東から登るのか西洋人が裁判してでも定義したのと同じ
存在を疑う、自然を理解することは神に近づく事
神がいる方向が尊く感じるのは、人間に組み込まれている気がする
なんで雨が降るのか、大人に聞いてしまうのも
幼児に組み込まれた自動装置
なぜ?は着地することで安心をもたらす
答えがないことはそれだけで不安をもたらすように人間はできているね
不安に駆られることで楽観的になれる場合もあるんだけどね
実家の親の目に耐えられなくなって車で寝泊まりを始めるとか
一人で海外に行ってしまうとか
結局何かやりたいことや物事を進めるには
目標がある方向に歩き、壁の目の前に立ち、肩を入れてぶつかっていくしかない
計画は不安を下げるため、他者の説得のため
それがいらないのならとりあえず近づいてみるしかない
目の前に立ってしまった壁はなんとかぶち破るしかなくなる
生きるためなら無理が効く
後から反動はくる
とりあえず立ってみると意外と簡単だったりするし
駄目なら駄目だし
考えるより動けって言われているのは本当だと思う
それをわかってても私が動かないのは
やりたくないんだなって
生きたくないんだなって
そういう結論になる
そうなると、不安が減れば簡単に何かしたいと思えるようになったり
生きたくないんだと思う瞬間は減るのかもしれない
自分は失敗すると直で自分の存在価値のなさに行き着く
そこになんの壁も、枚数もない
なんでなんだろう
いつからなんだろう
失敗しても当たり前の時期はいいんだ
続けていくと失敗しないことが当たり前になるだろ
そこから私のストレスは上昇する
いつまでも自分の管理者がいて欲しいし
失敗しないことが求められる環境に
過去のトラウマが重なる
失敗してもシンプルに頭下げれば済むのに
昔のいろんなことを思い出しながら頭を下げるから
存在価値が一気に落ちる
そういうことだ
時間の感覚がまばらっていうのが大きい
僕が飛び跳ねる理由の著者が語ってたのは
自分の時間感覚はまばらに打たれた点だということ
すごく共感した
自閉症があると生活が大変で
本当のその人っていうのは外から見てもわからない
コントロールが効かないのか本人の本当のこだわりなのか
パニックが出るといくら言葉をかけても
本人のタイミングが来るまで落ち着かない
自分の譲ることのないペースがあるところが自分は好きなんだけど
望んでるのか望んでないのかはこちら側で決めつけるのは違うなと思って
まあ分からない分、単純にその人がクルクル回って楽しそうだったり
笑っていればシンプル嬉しいよね
こう文字を書くことで過去のことを一列の線として捉えられるように
そういう目的を持ってやってたりするんだけど
今だと少しずつなんか感覚として約30年間が列をなりつつあり
一定期間置いたり、働くとその期間の記憶がぶっ飛ぶんだよね
点としてしか捉えられなくて、完全にそこへ順応してそのほかに割く時間がなくなる
だから自分の人間関係は続かないし、続いているものも自分への可哀想な目線によるものだと最近思っていて
対等だったのかもしれないけど、そう思いたくない何かがあるんだよな
こう何か患っている感を出すことで、助けてもらえる自分を演出してきた
普通に油断すると取り返しにくい失敗するから
取り返すための謝罪に耐えうる心の持ち方が分からないから
相手の立場になってみれば、迷惑な話だよな
そんな迷惑と思ってなくても私は迷惑だと思いたいんだよ今
もしかしたら友人らしいやり取りに耐えうる心じゃないことへの正当性を持たせたい?
良い人を営業していたっていう表現が自分としてしっくりくる
営業できない、定休日、長期休業、閉店です