御子神兵庫助
名著に関する言及を集めて参ります。
先輩編集者から聞いた話。 (柴田錬三郎先生の)文章の凄みを先生に面と向かって熱弁を揮ったら、柴錬先生は、 「(文章でいえば)オレなんて、五味(康祐)の足元にも及ばない」 とおっしゃった、という。
先輩編集者が言った。 「難解な文学作品を読むとき、わかろうとして読んではいけない。その文字のプールにただ飛び込むという感覚の方がいい。言葉の感触を味わいながら、最後まで泳ぎ切って、頭や心に何が残るか。それをつかみ取るだけで十分読んだことになる。わからないという感覚は無駄である」
とある編集者が言った。 「高名な装幀家、若いデザイナー、中堅どころと仕事する中で見えてきたのは、色数が増えれば増えるほど、デザインは濁っていくということだ。彼らはそれを教えてくれた。稀に何色もの原色を華麗に使いこなす人がいるが、それは例外中の例外と思うべきだ」
純文学系の編集者が言った。 「優れた文学作品は、すべて『孤独』に届いている」 中間小説系の編集者が言った。 「優れた物語文学は、すべて『人生、如何に生くべきか』を描いている」 エンタメ編集者が言った。 「面白けりゃいいんだよ」
先輩編集者が言った。 「綿密に設計図を立てて人物をその通り動かして創り上げるタイプの作家と人物数人をしっかりイメージしてあとは彼らが勝手に動くのをなぞるタイプの作家がいる。前者は伏線もあり回収もある。後者は無意識が立ち上がる」
「それってあなたの感想ですよね」 といって、相手の発言の価値を無化させたようにみせる技があるが、感想でないものは、ロジカルな思考だから、誰が語っても同じになる。「1+1=2」とか「上昇気流で雲ができる」とか。つまり、唯一者として個人が発すべき価値ある発言はすべて感想でしかない。
ある先輩編集者が言った。 「小林秀雄先生は、『微妙ということが分からねばならない』とおっしゃったことがある。『音楽と絵画を鑑賞してきた者は、微妙ということが分かるが、文字だけの者は、ダメだ』と」
かつて直木賞を受賞たされ人気作家が作家志望の青年にひとつアドバイスした。 「急いで書いてはダメです。ゆっくり書かないとひとつひとつの言葉に載る祈りのようなものが零れ落ちてしまうのです」
世代交代は難しい。編集者が60歳に近づくと、作家に次の担当を引き合わせてバトンをつなぐのだが、人見知りの作家などは、新しい若手編集者をなかなか受け入れられず、無理無体な理由で、「前の〇〇さんに戻してくれ」と怒ってしまうことがままある。社としては長く付き合いたいから変更するのに。
ある作家が某社でうまく行かず担当がつかなくなって、ウチに持ち込んで来た。素晴らしい熱量の原稿だったが、直すべきところがたくさんあった。それを伝えると、 「私は絶対に直さない。そのまま出す版元とだけ付き合う」 と言った。 私は、 「残念です」 と言って席を立った。
対談まとめの達人といわれる先輩編集者がいた。秘訣を聞いたら、 「音源の文字起こしをしないことだ。対談に同席して生で聞いた印象だけで復元するのだ。『私』というバイアスはのんきな対談の底に沈む本質を救い上げる。そのためには両者の文学の本質を掴んでおかねばならないがな」 と仰った。
とある作家が言った。 「僕はいくら年下の編集者でもその編集者が35歳になったら、同格の人として対峙する。場合によっては尊敬さえする」
小説を書き始めた先輩編集者のAさん。 「小説を書くようになって分かったんだけど、副詞のような形容句は省いた方が小説の文章はよくなるね」 「『ゆっくり歩いた』でなく単に『歩いた』とするんですね」 「そうそう。『ゆっくり』ついては、目に映る光景を描写して表すんだよ」
名文家の先輩編集者がいった。 「文章をよくするには、書いた文章を音読するのがいい。朗々と読み上げてみるんだ。ダメな文章にはリズムも豊かな抑揚もない。音読すれば如実にそれが分かる」
とある政治家が言った。 「保守と革新。右翼と左翼。なるべく簡潔に定義したいんだけど」 とある編集者が言った。 「所属する組織と自分自身を比べて、組織を重く見る人が右、自分自身を重く見る人が左です」 政治家は言った。 「それ、貰い♪」
大人になるには、教養が必要だ。かの中島らも氏は、教養を孤独に過ごせる手段があることと書いたが、大人が孤独に耐える存在である以上、そういう規定も分からなくはない。教養の度合いが高ければ高いほど大人度が高い訳だ。そして、大人度が高いと他人と連(つる)む必要がなくなっていく。 一方、 基礎教養+世間知+専門=教養 という公式がある。この時、 基礎教養=語学+芸術+哲学 世間知=歴史+政治+経済 で、芸術は文学を含み、哲学は倫理・宗教を含み、専門はたつきの手段(=商売)で