純文学の編集者Sさん。新人だった私にこう教えてくれた。 「それは新しい文学なのかどうか。編集者生命をかけて見極めろ。先行作品に似た意匠、似たテーマ、似た語り口があるのにそれを発見できなかったら、負けだ」
とある編集者が言った。 「児童文学・少年向けの乱歩・ドイルを卒業して、最初にどこに行くかが思いのほか重要だ。星新一なのか筒井康隆なのか。井上靖なのか、芥川なのか、太宰なのか。読書人生がかかっているだけでなく、人格形成にも影響がでるだろう。何がいいということではなく」
ある先輩編集者が言った。 「閉塞感があってどんよりつらい社会情勢の時に、勇気や希望のある小説を出す。世間が浮かれている時に人生のむなしさが染み渡る小説を出す。まあ、そういう事だろう」
サッカーの観点で野球を見たとき、投手も捕手も守備する野手も、ボールを手で扱っているので話にならないとダメだしすることができる。 野球を鑑賞するなら、野球の作法を頭に入れておくのは必須だろう。 芸術もそうだ。作法が頭にはいるまでは、不用意に感想を語るのは怖いことだ。
「あなたの小説にはヤマが2つある。立派なものです。ラストの山場、これは必須です。中程の山場、これもいい。ここに向けて前半引っ張られる。しかし、あとひとつ足りません」 「3つめがいる、と」 「そうです」 「どこに置きましょう」 「冒頭です。いきなりヤマ場にして読者を摑まえるのです」
著名人の自伝をゴーストライトしているライターさんがそのポイントを教えてくれた。 「じかにお話を伺って、想像を膨らませて、聞いてないことも私自身の創造的必然性で以て、創りながら書くのです。著名人が20しか言ってないのに、40も60も書くのです。そして、その想像はたいていビンゴです」