【note未発表小説】嘱託殺人
「愛川美津子という子がいるらしい、授業中は度の厚いメガネを掛けているから、美人だけどそれほど目立つような子じゃない。でもメガネを取ったあとこれがまたすごいかわいいんだ」
五月の連休がすぎる頃、こんな噂が、同級生だけでなく上級生含めてささやかれるようになった。噂じゃなくて事実だけどね。ぼくは、ぼくだけの愛川美津子が、だんだん遠くに離れていく気がしていた。休み時間には、上級生が、ぼくら1年坊の教室まで数人で、毎時間の休みに美津子を見に来たほどだった。
「また来てるよ」
もやもやした気持ちを隠しながら、苦笑交じりに美津子にいった。
「いま、メガネかけてないから何も見えない」と、笑った。
なぜだか涙がでてきた。美津子が見えないなら構わない、と思って、僕は鼻水混じりの自分の涙を拭かなかった。美津子は、あの笑顔で笑っていながら、いい匂いのするハンカチをプリーツスカートの右ポケットから取り出して、「はいよ」と渡してくれた。
「見えてるんだね」
「そうね、見ようと思えばね」
美津子のためなら死ねるな。なんだか突拍子もなくそう思った。そんな生き方がこの時代にもあるのかな、一人苦笑した。
異変は次の日に突然に訪れた。美津子といつものように後者の屋上で弁当を食べていると、教師たちも手を焼いている女子の不良グループがやってきた。
「美津子っていうんだってな。お前目立ち過ぎなんだよ」
「…………」
「なんとか言えよ」
「…………」
「ほらあ、何とか言えってば」
「わたし何もしてません」
「その何もしてない、っていう態度がムカつくんだよ」
三級上の女子学生は、昼休みに二枚に手のひらに隠したカミソリで美津子の頬を切り裂きました。
二枚でやられると傷が平行状態になり縫合が困難なので、顔に傷が確実に残ります。そんな話を聞いたことがありました。
僕の父親は外科の開業医だったので、「傷が絶対残らないようになんとかして欲しい」と携帯電話で父にはじめて頭を下げました。
「治療はできるが、傷跡を残さないというのはその状態ではなんともならない」と、やはり父もそう言いました。ぼくはあいつらを突き飛ばして美津子を屋上から保健室につれていきました。出血そのものはそれほどでもなく、命に関わるようなものではありませんでした。そのあたりは、きっといわゆる「ケンカなれ」いているのでしょう。
ぼくはふつふつと怒りが沸き起こってくるのを感じました。そうか、おまえらがそうならおれは、おれのやり方でお前らに決着をつける。
そう思って、スーパーで普通の果物ナイフを手に入れました。心が高鳴りました。
美津子の傷は範囲が小さかったので、1週間ほどで治療もすみ、わずかな傷痕を頬に残して、復学していた。医者からはこの範囲なら何十年かすればほとんど見た目はわからない、と言われたそうだ。
学校側では、警察沙汰にせず、金銭的な示談でことをおさめたようだった。詳細も知らないし、どのくらいのお金が動いたのかも知らない。
でも、不思議だった。何度か誘われて訪ねた美津子の家は、かなり裕福な感じで、お金なんかで動かされないはずだったから。
「いいの、わたしがそうして、って親に頼んだから。私のことは親は何でも聞いてくれるから」
その笑い顔が、かわいくみえた自分がまた、恥ずかしかった。最低の人間のクズだと思った。自分は人に頼られる人間じゃないんだ。あらためてそう思った。こうして、この事件は自分を抜きに解決している。
間抜けだ。ほとほと自分が嫌になる。自分という人間は、常に人生というものの蚊帳の外に居るのだろうな……。美津子が治療を終えて学校に来た夜には、ずっと朝まで寝ないで静かに泣いていた。泣くということだけが、自分の誠意だという、完全になさけない男だった。
「おはよ」
数日たって、メガネを掛けてない美津子が僕の肩に手をかけた。校門に入る前に美津子はいきなりぼくの学生カバンをひったくった。中を開けて果物ナイフを取り上げてられた。
「何これ? 何か楽しいおもちゃかな」
美津子は、僕の鞄の中の果物ナイフを自分のカバンに入れた。
「ナイフを使いたいなら、使い方からあたしが教えてあげるよ」
そう言って、うつくしくかわいく微笑んだ。
妹? 違う、姉? 違う、母?違う、やさしい悪魔の笑い方だった。
「ねえ、なんでぼくがかばんの中にナイフを持ってるって分かったの?」
いつものように昼休み、旧校舎の屋上でお弁当を食べているときに、思い切って聞いてみた。彼女は笑った。
「この間、武藤くんが駅の北口のスーパーで果物ナイフをかごに入れているの見たから。多分わたしのために使うんだろうな、と思った。だから、カバン検査して取り上げました」
また彼女はあの笑顔で笑った。
あ、笑うってこういう笑顔のことだったんだって、幼年時代を思い出すような、そんな笑い方だった。笑顔のお手本のような笑顔だった。
刃物の話題でこんな笑い方できるのか……。自然と自分の小ささに、涙が出た。
「よく泣くね、武藤くんは。しかも女の子の前で」
また右ポケットからハンカチを取り出して、「はいよ」と渡してくれた。
「そんなことはないよ。人前で泣いたことなんて、君の前でこの間と今度と二度きりだ」ぼくはムキになってそういった。
「そうなの?」
美津子は僕の顔を覗き込んだ。メガネをしていなくても、見えるんだろう、こういう時は。
「わたしも人前で本当に笑ったのは、武藤くんの前だけだよ」
僕はなんだか照れくさくて話題を別のものにしたくて、とっさに言った。
「その頬の傷なんだけど、何十年かたつと見えなくなるっていってたよね」
まだ生々しい傷痕の残る頬を見て、ぼくはもう一度、殺意を感じた。ぼくの言葉は無視されて、心の中を見透かされたように、僕の殺意について美津子がちょっと間が空いたあと口を開いた。
「それはわたしがやるから大丈夫」
彼女は僕の心を読んだように、平然と口にした。また、ぼくのためにたぶん、笑ってくれた。崩れ落ちゆくプライドが甘美なものだとは、それまで一度も知らなかった。想像すらしたことがなかった。
プライドは守るもので育てるもので、敵に刃にして突きつけるもの。
それをすねたふりをして、まるで反対にしてしまったのが美津子だった。僕はそれまで必死に抽象的なプライドを保ってきた。でも、女の子との前で泣くこと、自分の弱さを誰かに直視してもらうこと。それを、ぼくは弱視の女の子から教えてもらった。
そのとき、僕には僕の聖なる義務があると思ったんだ。
放課後に彼女がトイレに行っている間に、もういちど彼女の学生カバンをこっそり開けてナイフを奪い返した。これはぼくがやらくなくてはいけないことだと、もし自分が殺らずに彼女にそれをさせたら……。
そうでないと、これから先の、その後、どんな人生も僕には無い。その時、頭の先から背骨を突き抜けてつま先までつきぬけてもぬけの殻になった、自分の骸骨のような未来だけがありありとみえたから。
旧校舎の方の中庭に夕方、彼女に来てもらった。
本当に不思議なのだが、彼女は僕がいったい何に従っているか、その見えぬものを知っているようだった。自分からしゃべるはずだった。
でも、いつものように、彼女からすべてを見通したような声が出てきた。
「果物ナイフ盗まれたんだけど……。やってくれるの? じゃあ、いっしょにやろ」
ぼくが、その美津子の頬を傷付けた女を羽交い締めにする、そして美津子は不良グループのリーダーの頬を果物包丁で刺す。
ぼくはやっと美津子と同じ場所に立てたんだと思った。
ぼくが羽交い締めみたいにして、美津子が刺す。これが単純に言うと僕らのシナリオだった。やられたらやりかえせという単純な論理なのだが、こんなことをやっていては世の中は狂っていく。しかしこの時、僕にはこの論理はなぜか唯一の真理に思えた。
「でも、人を刺すなんていうこと君にできるの?」
ぼくは恐る恐る聞いてみた。なぜ恐る恐るだったのか。僕には彼女がそんなことたやすくできると、どこかで分かっていたからだ。
「ふふっ」
彼女は分厚い眼鏡を取り出し、メガネを掛けて、僕の買った安物の果物ナイフを右手に持ち、屋上のドアを開けた。階段の一番上の踊り場の掲示板に掲載してある、演劇部のレトロチックなポスターに無造作に投げつけた。
刃物は、ダンスを踊っている女性の頸を正確に射抜いていた。
「やるの?」
「あなたがやるならね」
ナイフを外してきて、自分で投げる真似しようとしていたら、学年主任の教師が僕らの仕草を見ていた。美津子はとっさに僕のナイフを取り上げて体に覆いかぶさってきた。僕の体を反転させて自分のスカートを引っ張り上げて下着を見せた。
「お前ら屋上でいったい何をやってるんだ」
学年主任は顔を赤らめながら大声を出した。
「すいません」
彼女が一言言ったら学年主任は頷いて、そのまま消えていった。消える、消える……。すべて消える。すべてが消えて残るものは何なのだろう。
僕はそれを美津子と見たいと思った。ぼくたちは詳細を打ち合わせた。
「じゃあ、いいね、この作戦で」
「いいよ」
「君はとにかく、あの度の強い眼鏡をかけた状態でそんなことはしたくない」
「うん。やっぱりね、犯罪を犯すにも、犯罪者の身勝手な美意識みたいなものがあるから」
「美少女が不良を刺したほうがかっこいいよね」
「いうわね。ブスが同性を刺してもみっともないしね」
眼鏡の君も充分うつくしくて、僕は好きだと言おうと思ったがやめておいた。やはり美津子も眼鏡をかけない自分のほうが好きなのだろう。
僕が羽交い締めにして、僕が声を出す。「ここに刺すべき標的がいる」君が刺す。それなら、眼鏡がなくても刺すことはできるね。それでいいんだね。そして、頬ではなく心臓を刺す。これでいいんだね。
「うん」
ぼくは思い切って別の思っていることを聞いてみた。
「美津子ちゃんさ」
「美津子でいいよ」
「うん」
ぼくは照れながら生まれて初めて女性を呼び捨てにした。
「美津子はなにか別のことを考えてないかい?」
「……」
沈黙に耐えきれなくなるのはいつも僕の方だ。美津子は僕よりも何枚も上手で、やはりぼくにとっては不可解なかわいい悪魔だった。悪魔にたぶらかされるって、男にとっては幸せなことなんじゃないだろうか、そんな気がした。
「君はもしかして死にたいの?」
弱視のうつろな目であたりに風景を見ていたようだった。その風景がどの様に見えたかはわからない。
「あなたは?」
生まれて初めて避けていたことを真剣に考えた凝縮された一瞬だった。
「そうかもしれない」
僕の久々に真剣に考えた脳髄からはそんな言葉が出てきてぼくも驚いた。
「あ、来たよ、三人で来てるけど、あいつをぼくが羽交い締めにするから、ここを刺せ、といったら躊躇なく一気に突っ走って突進しな」
「君のほうが詳しそうだけど、ナイフは振り回しちゃ何の役にも立たない。腰のあたりで両手で持って、全体重をナイフにかけてから、ジャンプするように相手の心臓を刺す。これが一番いい」
「分かった。ありがとう」
「来たね」
「警察どうのとか言われたから一応来たんだけど、まだ何か言いたいことあるわけ?」
そいつが言った瞬間、ぼくはそいつを羽交い締めにした。
「美津子、この僕の声のするところをめがけてジャンプしろ」
「ありがとう」
美津子はものすごい勢いで標的まっしぐらに走り込んで、全体重をナイフにかけた。
血の匂いが鼻腔を詰まらせた。
美津子が刺した相手は、ぼくだったんだ。
不良グループの、蜘蛛の子を散らすように叫びながら走り去っていく声が聞こえた。
美津子があわててメガネを取り出して、ぼくの内ポケットからはみ出している遺書を引き出したのが分かった。薄れゆく意識の中で美津子の胸に顔を押し当てた。女のこの胸ってこんなに柔らかいんだな。まるでお風呂に入っているような気持ちよさだった。
遺書をめくる音が聞こえる。もうすぐ読み終わるのかな。
今回このようなかたちで、学校、警察、その他ご関係者の方にご迷惑をおかけしたことを心よりお詫び申し上げます。本当に申し訳ございませんでした。
僕は、本当に短い期間でしたが、美津子といろんな話をすることができました。その上で、最終的に美津子からの「わたしがあいつを刺し終わったら、一緒に死のうね」という言葉にうなずきあいました。
でも。
僕が演ったのは、まず、彼女が刺す相手を間違えて、僕を刺す。
美津子
僕は君の弱視を利用したんだ。恨んでくれ。
でも、その弱視がぼくはたまらなく好きだったよ。その弱視が君を作り、君を不幸にしたのももちろん知っている。でも、なぜだかその弱視の君が健気に生活しているのが、僕にはとうてい真似のできない奇跡だった。
君は自分の意志でだれも刺してない。刺して欲しいと錯覚させられて僕を刺しただけだ。
君が突進してくる直前に、彼女は羽交い締めにしていた彼女をコンクリの床に倒したよ。僕の声のする方向にあいつはいない。そこにいるのは、ぼくだった。女の子を両腕で抱いたことがない。人生の最後に女の子を思いっきり抱いてみたいな、そんなことを思いながらこれ書いてる。君を抱くように迎えるから、ぼくを刺してくれ。
僕が望んだことなんだ。最期に思いっきり君を抱きたい。
君はもしかしたら、僕の後を追って死ぬかも知れない。お互いもう疲れたよね、人生には。
それでも、ぼくは君が死ぬことは望んでいません。生きてください。君のような、珍妙な生物は他にはいません。奇跡のような時間でした。こんなことって世の中にあるの? っていう鼻から涙が出てくるような瞬間がいっぱいありました。
奇跡って、この世にある? っていう人に、奇跡って毎日あるよ! って大声で言いたいくらいでした。
僕は君と心中するようなそんなことに値する人間ではない。僕は僕でこれまでいつも死に場所を探していました。生きている意味もわからなかった。それでも、そこに君との思い出を、どうしても巻き込みたくなかったし、一方で最後の最後の願いとしても巻き込みたかった。
それが、どれだけ罪深いエゴであっても。ごめんね。多分ギリギリのところで、君はそれを受け止めてくれると信じています。
「嘱託殺人」なんだよ、これは。君は何の罪にも問われない。
なんて甘美な言葉でしょう。愛する人の手にかかって自殺すること。これは至上の幸せです。
願わくば、この僕の思いを受けて、生きてください。
武藤 光男 拝
美津子が血でまみれたナイフを片手に、全体重をナイフにかけて、自分の左手の動脈を刺すのがかすかに見えた。
美都子のいい匂いが鼻腔に充満した。柔らかい胸が僕の血まみれの胸に押し付けられる。もうそれ以上は何もいらないはずだったのに。僕はこの今が永遠となるように願って、美都子を抱きしめた……ようだった。
消える、消える……。すべて消える。すべてが消えて残るものは何なのだろう。
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