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【長編小説】真夏の死角58 商店街の毛沢東
田久保はエレベーターのない13階の公団住宅の玄関を出て、澤田景子とともに階段を降りていった。もちろん、これは強制でもなんでもなく、田久保はこのまま帰ろうと思えばいつでも神奈川県警に帰ることができたし、スマホを不覚にも取り上げられたことも、窃盗罪の現行犯として澤田景子を逮捕することも可能だ。
しかしこれはある意味で、この闇の世界に分け入っていくまたとないチャンスである。田久保はとにかく、アビクドール・アイデルバークに接触することが局面を打開するために不可欠だと判断した。
アイデルバークは、階段のすぐしたの公団内の道路に駐車されているイスラエル大使館の公用車の後部座席のシートに座っていた。横には大使館付きの武官ではないかと思われる屈強な運転手の姿が見えた。アイデルバーグは田久保と景子に気がつくと、自ら車を降りて二人ににこやかに手を振った。
アイデルバーグと景子は軽く握手をして言葉をかわしていた。日本語であはったが言葉の脈絡を無視した当人同士しかわからない会話で、その様子からも二人が始終コンタクトを取り合っている仲であることが分かった。アイデルバーグは、景子と話をしている逢田も、終始、田久保に視線をよこしながらにこやかに笑いかけていた。
ジャン・レノという映画スターがいたな。田久保はモサドの秘密工作員に日本でも人気のあるフランス人の俳優を重ねていた。流暢な日本語で日本について語るモサドの秘密工作員は、まるで映画のスクリーンの中でジャン・レノが日本語吹き替えでしゃべっているような非現実的な感じがした。
そのまま車に載せられるのかと思ったが、そうではなく、アイデルバーグは景子と話をしながら田久保の少し前を歩き始めた。車の中ではなくどこか別の場所で話をするということなのだろう。田久保はその後に従った。
時折、アイデルバーグは田久保にも、景子との話を振ってきた。今この日本で進行している巨大な問題点について鋭い指摘だった。それは日本人に対する外向的礼儀をわきまえた控えめを装ったものではあったが、日本の置かれている危機的な状況を淡々と語っていた。
「このままでは、日本列島に日本人はいなくなりますよ」
田久保はアイデルバーグのその言葉に立ち止まった。
「どういうことですか」
「やがてこの国の人間は中国語を話すようになり、日本円は毛沢東のすられた人民元に変わるでしょう」
「……なぜですか。いやその前に、その話が私達にどんな関係があるっていうんです」
田久保の当然の疑問に、景子があの慈愛に満ちた顔で微笑んだ。
「そうならないようにと、主人は願っていました。そして行方不明になりました」
「仙台国際グローバル大学の一連の事件も、離島殺人事件も、すべてそうした世界が来ないようにするために必要なことでした」
アイデルバーグが、まるで同胞に語り帰るように田久保にそう言った。
「それはいったい……」
「そのことをこれからお話いたします」
アイデルバーグはそう言って、商店街の中のみすぼらしい喫茶店のドアを開けた。そこだけまるで「三丁目の夕日」の映画から切り離されたような風景だった。
「あ、景子おばさん!」
田久保がアイデルバーグと景子の後に続いて、喫茶店に入ると、奥から声が聞こえた。
「あ、美姫ちゃん、お待たせ」
「どうもっす」
「槇村君も、悪いわね呼び出しちゃって。この間来てもらったばっかりなのに」
「いえ、俺は常に美姫のボディーガードっすから」
田久保はあっけにとられていた。
「おじさん、お久しぶりです」
「……おお。美姫ちゃん、久しぶり。でもどうしてここに?」
美姫の代わりにアイデルバーグが口を挟んだ。
「それは、あなたの姪御さんの美姫さんと、槇村慶次君が、澤田明宏君ととても親しい間柄だからですよ」
「いや、でも……」
「ええ、この件にもちろん関係しています」
「確かに澤田明宏は離島殺人事件の重要参考人ではありますが……」
「いや、そういうことじゃありません」
「といいますと……」
田久保は喫茶店の中で座るタイミングもないままに、話の急展開に巻き込まれていった。
「澤田明宏君こそは、仙台国際グローバル大学の一連の事件、離島殺人事件の真相解決のキーマンであるばかりでなく、この日本を、いや、これから中国が起こそうとしている破滅的な計画を防ぐ、この世界を破滅から救う人間だからです」
アイデルバーグが断定的に静かにそう言った。
美姫と槇村はこのことは聞かされていなかったようであり、田久保を含めて三人は話の成り行きにただ呆然とした。
「じゃあ、座ってお話しましょう」
景子があの笑顔で田久保を促した。
テーブルの奥の席にアイデルバーグと景子が座った。田久保はテーブルを挟んで反対側に美姫と槇村と座った。
ふと見上げると、正面の壁には毛沢東のどでかい肖像画が掲げられていた。
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