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【自選小説】また、ぬいぐるみの声が聞こえる時
大学を卒業して家を出ていった娘が、今日は実家で誕生日を祝ってくれるらしい。ずっと診察室で私は今日は急いで帰りたいなと思いながら、夕刻に精神科の病棟で、入院患者を巡回していた。
これが終わればそのまま帰れる。そんな思いで巡回していると、秋山さんという21歳の若者の様子が変だった。主治医の私を医者と思っていない、どこかのおじさんが病院に紛れ込んでいる。そう信じている患者さんだった。
病状は落ち着いていて、来月にも一旦退院ということで本人も納得していたのだが、この日は、ぬいぐるみの犬を抱きかかえて、何やら必死に取り憑かれたようにしゃべりかけていた。見慣れたぬいぐるみだった。
「秋山さん、どうしましたか」
私は聞いてみた。
「マキがね、しゃべらなくなったんだ」
「その犬のぬいぐるみはマキちゃんって言うんですね」
「ぬいぐるみじゃないよ。マキはマキだ」
私はその見慣れたぬいぐるみがマキという名前だとこの時初めて知った。こういうときには、医者は逆らってはいけない。
「マキちゃんですか」
「マキちゃんじゃない、マキ」
秋山さんは怒ってそう短く言った。
「秋山さんとそのぬいぐるみは特別な関係だったのですね」
「どうして過去形にするんだ、マキはいつでも僕のものだ」
「そうですね。どうしてそんなにマキのことが好きなんですか」
秋山さんはまるで赤子をあやすかのように、両腕の脇に手を伸ばし、身長20センチほどのぬいぐるみをあやすかのようにベッドの上で高く上げた。
「ウインタミンを一旦処方しましょうか」
「ウインタミンは毒があると反対された」
「薬ですからね、間違って使うと毒にもなります。いまはウインタミンがいいでしょう」
秋山さんは破顔した。
「お、先生は本当に医者なんだな」
「はい」
「僕の父親も精神科医だったよ」
「そうだったのですか」
「『今のお前にはウインタミンがいい』そういって、薬を処方してくれたよ。でも使いすぎちゃだめなんだって、そう言ってたよ」
「そうでしたか」
「精神科医の先生の息子が精神病になっちゃった」
そう言って、しばらくの間、秋山さんは気の狂ったように笑っていた。
私は看護婦が届けてくれたウインタミンを彼の静脈に注射した。
「マキはね、生きていたんだよ。僕は小学校のとき、大好きなマキと喧嘩したんだ」
「はい」
薬が効いてきたようで、次第に秋山さんは次第に落ち着いてきたようだった。
「それでね、先生」
「はい」
「学校から帰ったらすぐに謝ろうと思って、ずっとそのことばかり教室で考えていたんだ」
「はい」
「そしたらね、5時間目の授業の時に、保育園から帰るマキが交通事故で死んだと連絡があったの」
「マキは妹さんですか」
「そうだよ」
秋山さんは、なんでそんな当たり前のことを聞くんだと訝しげだった。
「はい」
「謝りたかったのに、取り返しがつかなくなった」
秋山さんは悲しそうに笑った。
「僕はその日発病したんだ」
「はい」
「マキの部屋で寝るようになった」
「部屋中にあるマキのぬいぐるみが、マキの声でしゃべってくれたんだ」
「はい」
「僕は統合失調症だってさ」
「お父様の診断ですね。私もそう診断しています」
「ありがとう。やっぱり先生は本当は医者だったんだね」
秋山さんは嬉しそうに笑った。
「はい」
「僕はずっと、ぬいぐるみの声を聞いていると安心したんだ」
「はい」
「先生、僕は来月退院しないといけないんでしょうか」
「そろそろ大丈夫かなと思いました」
「僕はずっと病院にいたい」
「どうしてですか」
今度は私が訝しんで尋ねた。
「退院が決まった日から、マキがしゃべらなくなったんです」
「どうしてだと思いますか」
「きっと、あたしは、お兄ちゃんにもう要らない。こう思ったんじゃないかな。病気治るんなら、あたしはもう今度こそ天国で暮らすねって」
秋山さんはそう言って、真っ暗に日が暮れた病室の窓の向こうを見た。私には見えなかったが、そこにはきっとマキちゃんが手を振っていたのかもしれない。
「それは、お兄さんの退院を祝福してくれていると考えられませんか」
「なるほど。やっぱり先生は本当は医者なんだな」
秋山さんが喜んでいた。
「はい」
「父はもう亡くなりました」
「はい」
「マキもしゃべらなくなりました」
「はい」
「僕はどうしたらいいんでしょう」
「はい」
「母親ももういません。偶然マキの死んだ日に、何年かして交通事故で父と一緒にマキのところに行っちゃいました」
「はい」
「退院しても大きなマンションに一人きりです」
私は言った。
「今日外出許可を出します」
「え、初めてですね」
「今から私と一緒に私の家にいらっしゃい」
「いいんですか」
「今日は実は私の誕生日で、娘が私の誕生日を祝ってくれるんです」
「そんなところに、僕のような人間が行ってはいけないのではないですか」
「いえ、まったくかまいませんよ。大歓迎です」
「でも僕緊張するな」
「リラックスしてください」
「先生のお嬢様はお名前はなんというのですか」
「真希」といいます。
秋山さんがにっこりと笑った。
「思春期の頃から、まったく口を聞いてくれなくなりました」
「そうだったんですか」
「はい。ずっと無口になりました。あなたのマキのようにしゃべらなくなりましたよ」
「……」
「秋山さんが一緒にいてくれたら、真希は今日いろんなことをしゃべってくれるんじゃないかな」
「先生はやっぱり本当の医者だったんだね」
「一緒に真希の声を聞いてください」
私は秋山さんにお願いした。
「先生」
「はい」
「今マキがうなずいたよ」
秋山さんは大きな声で楽しそうに笑った。
「『お兄ちゃん、退院おめでとう。これからも一緒だよ』今マキがしゃべりました」
「はい」
「先生の真希ちゃんも、きっとしゃべるよ!」
秋山さんが顔を輝かして、そう言った。
「はい。ありがとうございます」
「先生はやっぱり本物の医者だったんだな」
「はい」
秋山さんが、左手に抱かれたぬいぐるみに右手を添えて、お辞儀をさせた。
その時私は「先生。ありがとうございます」というマキちゃんの声を、確かに聞いた。