【長編小説】真夏の死角50 真実の世界
*最近『真夏の死角』読み始めていただい方へ。このシーンの続きです(^-^)
「なあ美姫」
「なんだ、慶次」
二人は金子と分かれてから駅に向かって二人で歩いていた。
「うん、世の中には俺たちの知らないことがいっぱいあるんだな」
「あほか、おまえ。何小学生みたいなこと言ってんだよ。そんなの当たり前じゃないか」
「いて!」
慶次は背の低い美姫から鋭い下段蹴りをお尻に放たれ、衝撃で一瞬左膝を崩した。
「だからさ、美姫。お前は沖縄空手の四段だってことを忘れずに蹴ってくれよ、頼むから」
「むふふふふ。これでも手加減しているのだが」
「ああ、痛え」
慶次はそう言って、左膝を更に沈めてよろけるふりをして美姫にしなだれかかってきた。
美姫は無言でさらにその左膝裏に蹴りを入れ、完全に左膝を崩して慶次をアスファルトに転がした。
「あわわわーーーなんてことするんだーーー」
慶次が大げさにくるくるとアスファルトを自力で回転しているのを笑いながら横目で見る。でもその時美姫は慶次が自分でも気がつかずに美姫のことを「お前」と言っていることに気がついていた。
もちろん忘れそうになったわけでもない。それどころか、他ならぬ明宏のためにこそ、こうして慶次と一緒にいろんなことをしている。でも、多分これがこうして慶次と二人で明宏の無罪を証明しようとし始めた頃だったとしたら……。自分は多分、「お前」という言葉に反応して上段回し蹴りを牧村慶次の後頭部分放っていたに違いない。
慶次の「お前」という言葉に美姫は自分が何か、上段回し蹴りでは消したくない、心の奥の部分の甘美なしびれにもにた感覚を感じていた。それに戸惑いながらもそれを封印することなく、それが広がるのを一瞬味わってみたいと美姫は思った。そのしびれは不思議なことにある、切ない痛みとなって胸の奥に谺した。その谺はいつも、自分が自分の家に遊びに来てくれた明宏を夕方送る時に二人きりで感じていたあれだった。
痛いような、愛おしくて、切なくて、正気を保ちながら同時に正気を失いそうな、そのめまいそのものが快楽でありつつも、その快楽を味わうことがまるでいわれのない罪を犯したような罪悪感でもある。それが不安となった時、いつでも美姫は夕暮れに向かって歩いて行く明宏の手を握って、そのどうしようもない不安の正体を確かめたいと思った。そして一度もそれを確かめることはなかった。
ふと気がつくと、美姫は我知らず、アスファルトをわざとらしく転げ回っている牧村慶次の手を握って助け起こしていた。電流がはしったように、何かが頭の先から牧村慶次の手を握った自分の指先を抜けていった。
その衝撃は慶次の体を一瞬で突き抜けたようで、慶次はほんのかすかに一瞬だけ驚いたような顔をした。そして、すぐに、その特別な意味のあった感触が単なる錯覚であることを自ら証明することが、愛する美姫に対する義務であるかのように、決して手を握り返すことなどなく手を握ったまま美姫に助け起こされるふりをしながら無言で立ち上がった。
「どうやら世の中には、我らの知らないことがいっぱいあるらしいな」
美姫はおどけてそう言った。
「ああ」
「どんな世界なんだろうなそれは」
「分からない」
「良い世界だろうか」
「分からない」
「なんだ、そうなのか」
「ああ」
美姫はいつものようには、言葉が続かなかった。
「それは、悪い世界なのだろうか」
美姫はうつむきながら、明宏に対する小さな罪悪感を慶次に打ち消して欲しいと願いながら聞いてみた。
慶次は「分からない」という言葉の代わりに、微笑んで静かに首を振った。
その姿は子供扱いしていた慶次の見せる大人そのものの顔だった。かつて、父親がすべての大人の世界の代表であり、そこに例外的に父親の前歯を剛速球で粉々にした宏明だけがいた。
慶次がそこにいた。
自分はどうだろう……。
自分が慶次に手を惹かれて、明宏が待っている大人の世界にだんだん歩いていっているのだと美姫は思った。それがどんな世界なのか、それは慶次には本当にわからないのだろう。
だとすれば、少なくともそれは、慶次と自分とが二人で歩いていくことによって初めて見えてくる新しい世界にほかならない。
明宏……。
明宏に会うために慶次がいた。
でも、今は……。
慶次と歩いていくことそのものに、何か大切な意味があるのではないかと小さく感じ始めていた。明宏はいつでも完全無欠な完成形でいつでもいつでもあっち側の世界にいた。私を手招きをしてもくれなかったし、手も引いてくれなかった。それが、明宏の偉大さであり、その届かぬ思いが強ければ強いほど、自分が疑いようもなく澤田明宏に恋をしているのだと信じていた。
でも、もしかすると、人を好きになることには別の形もあるのかもしれない。
心の中に一瞬生じたしびれにも似た甘美な思いがここまで広がった時、美姫は狼狽した。
そして、握っていた手を慌てて引っ込めた。
「さ、行こうぜ。もう暗くなってきた」
「ああ」
一瞬。
慶次の声に寂しさが混じったような気がした。
「慶次が好きだ」
美姫は心に浮かんだその言葉を封印するように、慶次の左腕に自分の右腕を絡ませた。
明宏が、あの父親に「豪速球を投げてみろ」と言われた時に見せた笑顔で美姫をやさしく見たように感じた。
美姫は腕を離すことなく、慶次と二人無言で駅までの黄昏れた商店街を静に歩いていった。
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