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【長編小説】真夏の死角51 極秘指令

最近この小説を読み始めてくれた方へ。神奈川県警の刑事の田久保警部が、学生時代の恋人川崎恵理子(不倫関係)と会った次の日という設定になります。


 仮眠をした後、朝一番で田久保は秘書課から連絡を受け、神奈川県警署長室に直行した。

 署長室をノックして敬礼をすると、そこには数名の同席者がいた。その中のひとりは田久保もよく知っている神奈川県警警務部人事一課長だった。もちろんよく知っているというのは、お互い関係が深いという意味ではない。

 人事一課というと一般企業では人事労務管理業務を行う部署ということになるが、警察組織においてはそれは間違っている。もちろん、一般的な人事業務も行うのであるが、それは警察では二の次の仕事だ。警察において警務部人事課は警察官の監察業務を行う。

 監察業務とはつまり、警察官が不祥事その他、警察官らしからぬことを行わないように、犯罪者に対するのと同じように24時間の行動の監視、いわゆる行確を行ったりする。
 また、憲法で保証された通信の自由を無視して個人宛の郵便物を秘密裏に押収したり、携帯電話の通話履歴を細部に至るまで通信会社に照会するなど身内の警察官をあたかも、敵国のスパイのように扱って少しでもおかしなところがあれば容赦のない尋問の末、懲戒免職に追い込んだりする業務だ。

 田久保がその人事一課長をよく知っているのは、とりもなおさず田久保秀明が、学生時代川崎恵理子と関係を深めることになる大学地下室での左翼非合法活動に手を染めた過去があったからだ。

 まだ幹部になる前、過激化組織から抜け出すための踏み絵として、田久保は恋心をいだいていた川崎恵理子を大学地下室でセクトの仲間の前でレイプした。そのレイプを恵理子は不器用な田久保の愛の証であったとして、田久保を精神的に救ったわけだが、これはもちろん恵理子もまた田久保に恋い焦がれていたからであった。

 そんな過去を知るものとして幹部だった竹田がいる。竹田は田久保が過去を巧妙に隠蔽してなんとか警察官として組織に潜り込んだ後、過去の非合法活動をネタに田久保を恐喝し、あるときは金品を、あるときは捜査上の重要情報をリークすることを強要していた。

 そのため、田久保は毎日の激務をこなしながらも、自分がいつ監察に自分の過去を暴かれ、その過去によって断罪され、警察を完全に丸裸、いや、お名まみれで懲戒免職になる日々に怯えていたのだった。

 署長に定石の人間抜きで単独で呼ばれ、そして目の前には夢に何度も出てきてうなされている、人事課長が田久保を厳しい目でじっと見ている。

 田久保は不思議と冷静な自分に驚きながらも、来るものがついに来たという、これから起きる数十分の奈落の底へ落ちていく自分の未来を幻視していた。

 決して目をそらすことのできない緊張感の中、かろうじて視界の中には神奈川県警察ビル最上階の署長室から、横浜港をとらえることができた。マホガニー材の重厚な所長のデスクの横には、斜め前方向に巨大な日本国旗が掲げられている。ホテルのスイートルーム並みの広い部屋ではあったが、そこには張り詰めた緊張感以外のものはまったく存在しなかった。

 神奈川県警捜査一課所属警部補田久保秀明は、直立不動の姿勢で敬礼をした後、一時間もの間、後ろ手の姿勢のまま神奈川県警察署長と刑事部長、警備部長の話を聞いていた。

 おかしい。

 いつまで経っても田久保の過去隠蔽及び、警察情報のリークの話は出てこなかった。話に出てくるのは、離島殺人事件が現在の神奈川県警の行っている澤田明宏重要容疑者説でもなく、横から出てきた東京地検特捜部と警視庁主導で進められようとしている小谷代議士秘書犯人説でもなく、まったく別の方面からの捜査方針で望むことの説明だった。

 ではなぜ、そのような話をするのに、管理官や理事官ではなく一介の警部である自分が呼ばれて説明しているのか。警察や検察の捜査方針を覆すわけなので、検察よりさらに上(法務省か首相官邸しかない)の意向が働いている。であればなおさら、キャリア組警視正である管理官や理事官が話を聞き、その後警部である田久保に話が降りてくるはずだ。

 また、署長と人事一課長と他に、内閣情報調査室から室長代理、外務省外事課から外事調査官一名、法務省から審議官が一名が列席していた。内調室長代理を除いては田久保とともに立ったまま話を聞いていた。

 話は複雑怪奇を極めていたが、中でも最も異様だったのは、田久保以外はこの件を聞いたのは始めてではないようで、田久保が必死に話を追いかけている中に出てくる「東北帝国」という耳慣れない、奇妙で妖しい言葉に対して疑問を持つ人間が一人もいなかったことだ。

 ともあれ、田久保は最初にこの部屋に来たときの、警察人生の終わりという最悪のシナリオが自分の思い込みであり、自分の身は安泰で別件の話であったことに安堵し始めていた。



「というわけで、仙台国際グローバル大学新設学部設立疑惑事件を戦前日本の独立国家『東北帝国』の視点から徹底的に洗い直すことになった。もちろん、管理官、理事官には話を通してある。しかし、この件の陣頭指揮は実質上田久保警部に指揮してもらおうと思っている」

 話の筋を追いかけているうちにいきなり結論めいたことが出てきて田久保は我に返った。 

「なぜ私が……」

「それはこの件についての重要参考人、黒幕の一人が、テレビ毎朝報道部エグゼクティブ・プロデューサー 川崎恵理子だからだ」

 署長が間髪をいれずに何の抑揚もなくそう言った。

 これまで、必死に内心の動揺を隠していた田久保だが、これには思わず「え」という声を上げてしまった。

「大学の頃からの付き合いだね、田久保警部」

 ここで、今日はじめて人事一課長が口を開いた。

「君には川崎恵理子の内偵をやってもらう。いわば、個人的付き合いを利用して川崎恵理子を監視、そして証拠になる情報を引き出すことだ。できるね。いや、できないとは言わせない。君は左翼セクトで非合法活動をしていたことから川崎恵理子とは深い仲だし、それは家庭を持った今でも続いている。」

「……」

「川崎恵理子との接触については、殺人以外のどのような非合法な行為も超法規的措置として黙認する。君は刑事部の刑事なわけだが警備部公安刑事と同じだと思ってくれていい。逆に言えばあらゆる非合法な手段を使ってでも、殺さない限り川崎恵理子からどのような卑劣で非人道的な手段を使っても良い、いや、はっきりいえばそれを我々は期待しているということだ」

 完全に凍りついた田久保秀明警部に対して、さらに署長が口を開き、容赦ない追い打ちをかけた。

「この件をうまくやってくれたら、君がこれまで警察組織に対して行ってきた裏切り行為は、所属長厳重注意という処分で済ませることも検討してみよう」

「……」

「聞こえたかな」署長が静かに田久保を促した。

「承知いたしました。謹んで任務を全ういたします」

 田久保はかすれかかった声で前傾姿勢で敬礼した。

 一瞬めまいがしたが闇に落ちることはなかった。

 姿勢を直した時、田久保は闇より黒い闇をはっきりと我が身に感じた。

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