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小説の終わり方と世界の終わりについて

  このたび、noteでは初めて中編小説を発表しました。暖かいコメント、暖かいスキに励まされて連載が完結できたことを、あらためて、心から感謝いたします。

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 小説の書き方にはいくらかのテクニックはあります。視点の統一などは最低限必要になってきますが、しかし、細かなテクニックというものは実際に小説を書く上ではあまり必要ではありません。

 では何が一番必要かと言うと、それはその人の世界観だと私は思っています。

 例えば今回の作品で言えば、ラストの終わり方をハッピーエンド風にするか、バッドエンド風にするか、それともそれ以外の全く違うやりかたにするか、というところにそれが試されます。

 大袈裟に言うと、そこに私が人生をどのように考えているかが如実に反映されるということです。

 自覚的に小説を書き始めたのは高校生の頃ですが(アメブロに山程のこっています)、その頃の私の小説ではことごとく《いわゆる》バッドエンドのものばかり書いていました。

 といっても、露悪的にこの世の暗さを表現するのではなく、一見バッドエンドに見える終わり方の中から、その小説の世界観が凝縮された救いを、読者の方に感じ取ってもらいたいと願っていました。

 《いわゆる》とわざわざ強調したのは、私自身ではその種の小説をバッドエンドとはみなしていないからです。


 例えば私の大好きな村上春樹さんの『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』という小説があります。これは一見バッドエンドに見えるのですが、そうではありません。そしてもちろんハッピーエンドでもないのです。

 南のたまりにたどりついたとき、雪は息苦しいまでに激しく降りしきっていた。それはまるで空そのものがばらばらに砕けて地表に崩れ落ちているかのように見えた。雪はたまりの上にも降り注ぎ、不気味なほどの深い青味をたたえたその水面に音もなく吸いこまれていった。白一色に染まった大地に、たまりだけが巨大な瞳のような穴をぽっかりと丸くあけていた。

 僕と僕の影は雪の中に立ちすくみ、長いあいだ声もなくじっとそんな光景を見つめていた。以前に来たときと同じようにあたりには不気味な水音が響きわたっていたが、雪のせいか音はずっとくぐもっていて、どこか遠くから聞こえてくる地鳴りのように感じられた。僕は空というにはあまりにも低すぎる空を見あげ、激しい雪の向うにぼんやりと黒く浮かんで見える南の壁に目を向けた。壁は僕に対してはもう何も語りかけてはこなかった。それは〈世界の終り〉という名にふさわしい荒涼として冷ややかな光景だった。

 じっとしていると、雪は僕の肩と帽子のひさしに際限なく積っていった。このぶんでは我我の残した足あともすっかり消えてしまったことだろう。僕は少し離れて立った影の方に目をやった。影はときどき体の雪を手で払い落としながら、目を細めてたまりの水面を睨んでいた。

「これが出口だよ。間違いはない」と影は言った。「これでもうこの街も俺たちを閉じこめておくことはできない。俺たちは鳥のように自由になれる」
 そして影はまっすぐに空をあおぎ、目を閉じて、まるで恵みの雨を受けるように顔に雪を受けた。
「良い天気だ。空も晴れてるし、風も暖かい」と言って、影は笑った。まるで重い枷が取払われたように、影の体はその本来の力をとり戻しつつあるようだった。彼は軽く足をひきずりながらも一人で僕の方に歩いてきた。
「俺には感じることができるんだよ」と影は言った。「このたまりの向うには外の世界があるっていうことをね。君はどうだ? ここにとびこむことはまだ怖いかい?」

 僕は首を振った。
 影は地面にかがんで、両方の靴の紐をほどいた。
「ここにつっ立っていると凍りついちまいそうだから、そろそろとびこむとしようじゃないか。靴を脱いで、お互いのベルトとベルトを結びあわせるんだ。外に出てもはぐれちまったら元も子もないものな」
 僕は大佐に借りた帽子を脱いで積った雪を払い、それを手に持ったまま眺めた。帽子は古い時代の戦闘帽だった。布はところどころですり切れ、色あせて白くなっていた。おそらく大佐は何十年も大事にその帽子をかぶりつづけていたのだろう。僕はもう一度きれいに雪を払ってから、それを頭にかぶった。

「僕はここに残ろうと思うんだ」と僕は言った。
 影はまるで目の焦点を失ったようにぼんやりと僕の顔を見ていた。
「よく考えたことなんだ」と僕は影に言った。「君には悪いけれど、僕は僕なりにずいぶん考えたんだ。一人でここに残るというのがどういうことなのかもよくわかっている。君の言うように、我々二人が一緒に古い世界に戻ることが物事の筋だということもよくわかる。それが僕にとっての本当の現実だし、そこから逃げることが間違った選択だということもよくわかっている。しかし僕にはここを去るわけにはいかないんだ

 影はポケットに両手をつっこんだまま、ゆっくりと何度か首を振った。
「どうしてだ? 君はこのあいだここから脱出するって約束したじゃないか? だからこそ俺は計画を練り、君は俺を背負ってここまで来てくれたんじゃないか。いったい何が君の心をそれほどがらりと変えてしまったんだ。女かい?」
「それももちろんある」と僕は言った。「でもそれだけじゃない。僕があるひとつのことを発見したからなんだ。だからこそ僕はここに残ることに決めたんだ」

 影はため息をついた。そしてもう一度空を仰いだ。
「君は彼女の心をみつけたんだな? そして彼女と二人で森で暮すことに決め、俺を追い払うつもりなんだろう?」
「もう一度言うけれど、それだけじゃないんだ」と僕は言った。「僕はこの街を作りだしたのがいったい何ものかということを発見したんだ。だから僕はここに残る義務があり、責任があるんだ。君はこの街を作りだしたのが何ものなのか知りたくないのか?」

「知りたくないね」と影は言った。「俺は既にそれを知っているからだ。そんなことは前から知っていたんだ。この街を作ったのは君自身[#「君自身」に丸傍点]だよ。君が何もかもを作りあげたんだ。壁から川から森から図書館から門から冬から、何から何までだ。このたまりも、この雪もだ。それくらいのことは俺にもわかるんだよ」
「じゃあ何故それをもっと早く教えてくれなかったんだ?」

「君に教えれば君はこんな風にここに残ったじゃないか。俺は君をどうしても外につれだしたかったんだ。君の生きるべき世界はちゃんと外にあるんだ」
 影は雪の中に座りこんで、頭を何度か左右に振った。
「しかしそれをみつけてしまったあとでは君はもう俺の言うことをきかないだろう」

「僕には僕の責任があるんだ」と僕は言った。「僕は自分の勝手に作りだした人々や世界をあとに放りだして行ってしまうわけにはいかないんだ。君には悪いと思うよ。本当に悪いと思うし、君と別れるのはつらい。でも僕は自分がやったことの責任を果さなくちゃならないんだ。ここは僕自身の世界なんだ。壁は僕自身を囲む壁で、川は僕自身の中を流れる川で、煙は僕自身を焼く煙なんだ」

 影は立ちあがって、たまりの静かな水面をじっと見つめた。降りしきる雪の中に身じろぎひとつせずに立った影は、少しずつその奥行を失い、本来の扁平な姿に戻りつつあるような印象を僕に与えた。長いあいだ二人は黙りこんでいた。口から吐きだされる白い息だけが宙に浮かび、そして消えていった。

「止めても無駄なことはよくわかった」と影は言った。「しかし森の中の生活は君が考えているよりずっと大変なものだよ。森は街とは何から何までがちがうんだ。生きのびるための労働は厳しいし、冬は長くつらい。一度森に入れば二度とそこを出ることはできない。永遠に君はその森の中にいなくてはならないんだよ」
「そのこともよく考えたんだ」
「しかし心は変らないんだね?」
「変らない」と僕は言った。「君のことは忘れないよ。森の中で古い世界のことも少しずつ思いだしていく。思いださなくちゃならないことはたぶんいっぱいあるだろう。いろんな人や、いろんな場所や、いろんな光や、いろんな唄をね」

 影は体の前で両手を組んで、それを何度ももみほぐした。影の体に積った雪が彼に不思議な陰影を与えていた。その陰影は彼の体の上でゆっくりと伸びちぢみしているように見えた。彼は両手をこすりあわせながらまるでその音に耳を澄ませるかのように、軽く頭を傾けていた。

「そろそろ俺は行くよ」と影は言った。「しかしこの先二度と会えないというのはなんだか妙なものだな。最後に何て言えばいいのかがわからない。きりの良いことばがどうしても思いつけないんだ」
 僕はもう一度帽子を脱いで雪を払い、かぶりなおした。
「幸せになることを祈ってるよ」と影は言った。「君のことは好きだったよ。俺が君の影だということを抜きにしてもね」
「ありがとう」と僕は言った。
 たまりがすっぽりと僕の影を呑みこんでしまったあとも、僕は長いあいだその水面を見つめていた。水面には波紋ひとつ残らなかった。水は獣の目のように青く、そしてひっそりとしていた。影を失ってしまうと、自分が宇宙の辺土に一人で残されたように感じられた。僕はもうどこにも行けず、どこにも戻れなかった。そこは世界の終りで、世界の終りはどこにも通じてはいないのだ。そこで世界は終息し、静かにとどまっているのだ。
 僕はたまりに背を向けて、雪の中を西の丘に向けて歩きはじめた。西の丘の向う側には街があり、川が流れ、図書館の中では彼女と手風琴が僕を待っているはずだった。

 降りしきる雪の中を一羽の白い鳥が南に向けて飛んでいくのが見えた。鳥は壁を越え、雪に包まれた南の空に呑みこまれていった。そのあとには僕が踏む雪の軋みだけが残った。

     『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』ラストより

 この小説体験は強烈でした。前向きに外の世界に戻ろうと誘う僕の影。しかし僕は、自分が作り出した妄想の世界に、それが妄想の世界であるにも関わらず、そこにとどまるという決意をします。その決意はある種の倫理的使命のような厳粛なものです。

 今回「Alone Again」を書いている途中にはさほど意識していなかったのですが、こうして書き終わって二日たってみると、やはりこの小説の原体験が根強く私の小説観、世界観を作っているなと思いました。

 影はみゆきです。そして僕は小姫ですね。

 私は《いわゆる》バッドエンドの小説は、あまり好きではありません。それは、ある一面で世の中の過酷さという真実を明らかにしているという点で、作品として評価の対象にはなるでしょう。

 しかし、真実を暴くことは必ずしも真実を表現していることにはならないと私は確信しています。

 もし真実を暴くことで真実を本当に語ることができるのであれば、この世界に小説家という人種は不必要なはずです。ジャーナリストがノンフィクションを書けばいいのですから。

 では、なぜ人は小説を読むのでしょうか。

 それは、真実とは、実は真実を暴くことの中にあるのではなく、真実とは、真実として語られなかったことの中にこそ、密やかに隠されている、その事実を読者が知っているからだと思います。

 小説において語られなかった真実は、読者の心にある種の余韻となって沈降し、その余韻はやがて、ふとした折、例えば歯を磨いている瞬間であったり、恋人とビッグマックをこぼしながら頬張っていたりする時に突然明らかになります。

 あ、あの小説の言いたかったのはこういうことだったのではないだろうか…。すぐれた小説は、読者の心のなかにある種の優しい、痛くない痕跡を残します。その痕跡はなにかの拍子に姿を変えて、読者の心のなかにまた現れてくる。

 それが、私の考える小説における真実です。

 つまり、乱暴にまとめてしまえば、それがハッピーエンドであり、バッドエンドであり、「エンド」がない小説。それが私には良い小説だと思われます。

 犯罪を犯した犯人を捕まえるところで刑事小説は終わります。恋愛が成就したところで(あるいは大破局したところで)恋愛小説は終わります。

 しかし、現実には逮捕された犯人の残りの人生はそこから始まります。そして恋愛に成就した人間も、それはもしかすると愛の破局の始まりだったと後から思うかも知れません。その逆に愛の破局を迎えた二人は、その実、真実の愛に気がつく第一歩を踏んだのかも知れません。

 このように、本当の真実を描いた小説は終わらないのです。

 終わりのない小説。

 これが私の小説において表現したい世界観なのです。


 今回の小説を書いている途中に、その途中があまりにも悲惨な、あるいは登場人物に同情したくなるようなシーンが多かったせいでしょう。

 最後はハッピーエンドにしてね、でもみこちゃんがそれを望むのだったら、バッドエンドもしょうがないけど、という暖かいコメントを複数いただきました。

 また、書いていて、コメント欄でそう言わなくても、そのように希望されている方が多いだろうということが、なんとなく分かっていました。

 私は、ハッピーエンドにします。と早いうちから公言していました。

 それは、このストーリーでバッドエンドでは、あまりに安易であり、芸がない。そしてそれは小説家として小説を書く意味がないと思ったからです。

 でも、《いわゆる》ハッピーエンドを書くつもりは毛頭ありませんでした。

 なぜか。

 それは《いわゆる》ハッピーエンドは、そこで終わる、エンドするからです。

 若輩者の私がこういうと嗤われそうですが、それでもいいたいことがあります。

 小説の作者が勝手に区切りを付けられるほど、人生は甘くない。全能の神のように、小説に勝手に区切りを付けられると思っている作者は思い上がっている単なるバカだし、区切りを執拗に求める読者は安っぽいテレビドラマでも見てくれ。

 小説の読書感想文で、結局何言っているんだか分からなかったという感想を漏らす人がいます。ひどいときには「何を言いたかったんだか分からなかった」ちうマヌケなことをいう読者もいる。

 小説を書く人が、「自分の言いたいこと」なんてものを表現するために小説書いたら、おしまいですよ。

 人生ってそういうものじゃないでしょうか。結局なんのために生きてきたのか分からなかった。これが人生の基本です。それでも人はその「何か」を求めないと、今日一日すら生きることができません。

 分かりやすい区切りをつけた人生の真実なんて、この世にはないのです。

 大切なことには後から気がつく。恋人が去ってから、親が死んでから、そして自分が死んでからすべてに気がつく。これが私の考える人生の不条理であり、人生の真実の形です。

 したがって、真実とは永遠に完全な形では手に入らないもの。だからこそ、真実を語ることでは真実を表現することは不可能であり、語られなかったことの中に真実を感じてもらうという小説作法がどうしても必要になってきます。


 だから、だから、ときどき連載している途中「もう終わっちゃうの?もう少し続けてよ」という励ましのコメントが泣きたいほど嬉しかった。

 小説が評価されているから、みんな終わってほしくないと思っているな、シメシメ、この私もたいしたもんだ。

 こんな風ににはもちろん受け止めていませんでした。私の世界観、私の命をかけて崩すまいと堅持している「終わりのない世界」を、話数を伸ばしてくれという表現で読者の方は受け止めてくれているのではないだろうか。

 おそるおそる、それが誤解であってもかまわないと思って、そう思うようにしていました。

 これは、「Alone Again」には続編があるという宣言でもあります。それが発表されたときには、またぜひ読んでいただければ嬉しいです。


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 さて、ここからはおなじみの「これが私のイチオシnoteだ!」の形を借りて、ひとつのnoteをご紹介したいと思います。

 本当は、この形を取ることなく、ずっと前から独立した一つの記事として書くつもりでした。

 でも、先ほど50記事ほど再読を終わって改めて思いました。なんだか恥ずかしくてそれはできない自分に気がついたのです。端的に言うと、頬が火照ってくる感じですね。

 そして、そんなことすると、私が赤くなるより先に恥ずかしがるのが、これからご紹介したいと思っている私の大切なnote仲間の方なのだと思います。

 会社社長さんです。

 ときどき、さすがにすごいなと思うビジネス観をnoteで披露されています。ビジネス仲間の方もフォロアーさんにとても多い方ので、私はなんだかアホなコメントをしないほうがいいかなと思ったこともありました。

 そうした社会人としての魅力ももちろんなのですが、私がみなさんに最初におすすめしたいのはこの「ホームレス高校生から這い上がった話」です。

 とてもひとことで紹介できる内容ではないのですが、あえて一言で言えば、こうなります。

 この実話を元にした回想記は、真実とは、実は真実を暴くことの中にあるのではなく、真実とは、真実として語られなかったことの中にこそ、密やかに隠されているという世界観で書かれています。

 おそらく普通の人であれば、ここに語れらたことの1/10であっても実際に自分の身に降りかかったら、ぺしゃんこになっていると思います。

 でもそうなっていない。それは座右の銘太郎さんの強靭な精神力ももちろんだと思います。そして座右の銘太郎がたぶん、人生とは「終わりのない世界」だと考えているからではないでしょうか。

 お母様や、お父様、そして最愛の(シスコンと公言)妹さんにまでも、けっこうひどい目に会っているのですが、( _| ̄|○   Ortz状態です) 不思議とそれを克服してしまうのです。

 そしてその克服とは、ご本人は違うと否定されるかも知れませんが、私には凄まじい克己心で現実を作り変えたということではなく、どんなひどいことがあっても、結局、いちばん最初に誰かを、世界を赦していることなんだだと思えてなりません。

 けっこうどぎつい表現で怒りを顕にされていますし、私だったらそんな怒りじゃ済まないなと思えるのですが、座右の銘太郎さんは赤裸々な体験を書いたあとに、必ず「まあしょうがねえか」という雰囲気を醸し出します。

 ご本人は、すべて今は乗り越えたからだよ、とおっしゃるかも知れませんがそうじゃないと思います。完全に乗り越えるにはたくさんの時間が必要であって、そのご苦労は並大抵のことではなかったと思います。

 でも私はあえて言いたいです。

 メイタロウちゃんは、最初からすでに降りかかる不幸を赦していて、赦している自分を長い時間かかって納得しながら再発見していったはずです。ある時に突然いい人になったわけじゃなくて、不幸のどん底ですでにいい人だったんだと思います。

やっぱりどさくさにまぎれてイチオシ企画の一部にしてよかったかもね(笑)。

 これは、並大抵のことではありません。不幸を克服するよりもっと難しいことだと思います。

 かっこつけてるのではないはずです。お読みいただければすぐ分かりますが、壮絶すぎてカッコつける余裕はないはずです(笑)。

ごめんね。あえてなんとなく(笑)にしておいた。正確には泣き笑いだよね…。

 怒涛のように降って湧いてくる不幸で、最悪の最終決断のことも何度か考えたことも書かれていますが、こうして生きて私の小説を楽しみに読んでくれています。

 それは、意志の強さだけじゃなくて、やっぱり私には座右の銘太郎さんが人生とは「終わりのない世界」だと考えているからではないかと、そう思えるのです。

その証拠に、ご本人は第一話の末尾にこんなことを書かれています。

すべて乗り越えたからこそ、人に話せる

 読者の皆様には、どうか安心をして頂きたいと思います。 私は理不尽に立ち向かい、何度も心を折られながらも、時には、運命から逃げながらも、立ち向かい、そして、今は温かい家庭を築くことができ、ささやかな幸せを感じられるようになりました。

 心というのは、どんなに傷つけられても、どんなに折れてしまっても、必ず蘇生することができる。 どんな運命も、諦めず立ち向かい続ければ、必ず乗り越えられる。 私の体験を通して、それを証明したい。

 傷ついたあなたの心に、希望の光が届くように。 私は書き続けます。

 私も、こんな風に小説を書いていきたいと、あらためて思いました。

 最後の「私は書き続けます。」この言葉に最大の称賛と共感の表明をしたいと思います。

 だって、エンドはないのですから。

 座右の銘太郎さんの人生にも、私の書く小説にも。世界にも…。


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 蛇足ですが、このように座右の銘太郎さんは公私ともに立派な方ではありますが、とてもおもしろい人です。私にいぢられて、いつもとても喜んでます。みなさんもぜひ いぢって あげてください。とても喜ぶと思います。


*このnoteは【共同マガジン】これが私のイチオシnoteだ!寄稿作品です。
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