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Alone Again..二輪の白牡丹(14/全17回)

  元人民解放軍兵士の実力は桁外れだった。

 およそ一分、感覚的には一瞬で俺は制圧された。逮捕や拘束という生易しいものではない。左肩のタックルで壁まで吹き飛ばされた俺は、直ちに後ろ手に捻り上げられた。ペアを組んでいる男が、俺の上半身から足元までの武器の携行を確認する。

 武器がないと分かると、俺は正面に向かされ兵士と正面に向き合った。目の色が常人とは明らかに違っている。透明感のある黒、漆黒の黒だ。この眼に比べたらヤクザ者の眼は人間の情念を秘めた暗黒の目だ。兵士の眼の透明感は殺人機械を思わせた。

 俺はその視線をまともに受け止めることに気を取られていた。いきなり足元を払われ、そのまま後ろ手にロープで縛り上げられる。

 この間およそ一分程度だったはずだ。

 小姫にはさすがにそこまで手荒い真似はなかった。しかし首を頑丈な腕でしっかりと後ろから固定され、身動きを封じられた。そこにペアの兵士がひざまずくような格好で足にロープを巻いた。これで、いくら暴れてもバランスを崩すだけで何も抵抗ができない。

 ヤクザのように大声を上げたり、無駄に殴ったりは一切ない。最小限で敵の攻撃能力を鎮圧する手管は完全にプロフェッショナルのものだった。

 このまま殺されて埋められることを覚悟したときだった。

 静止するマネージャーを吹き飛ばして、警官隊が突入してきた。

 おそらくこのビルが蛇頭のビルだということは当然把握していたのだろう。突入してきたのは私服刑事ではなく武装警官だった。刑事部ではなく、警備部のSAT(警視庁特殊急襲部隊)が投入されたのかも知れない。

 警察の判断は賢明だったと思う。相手は生半可な日本のヤクザとは違って、完全な殺しのプロだ。マル暴の腹の出たヤニ臭い刑事では歯が立たなかっただろう。

 警察はまず、人民服を来た男たちに特殊警棒で殴りかかった。相手が銃器を持っていない場合には、特殊警棒を使うのがSATのやり方だ。特殊警棒は金属製で、振り下ろすと長さが80センチほどになる凶器だ。殺傷能力も十分で、大きな家畜も一撃で屠殺することができるし、人間の首筋にまともに振り下ろせば首の骨が折れて即死する。

 SATはいきなりスライディングタックルを仕掛けるように、地べたを這い、合計9名の軍人たちのスネの辺りを特殊警棒で薙ぎ払っていった。立っていることができなくなったところを後ろ手に手錠。

 これは後から考えてみれば非常にラッキーだった。なぜなら一方で蛇頭にまだ息があることを確認したSATの隊員が救急車を要請する指示を無線で出しており、この時点で小姫の殺人罪の逮捕はなくなっているからだ。

 傷害罪ならば小姫は現行犯逮捕はされない。そして俺は重要参考人として事情聴取されるだけだ。

 ところが、SATが踏み込んだときには人民服の元軍人たちは明らかに俺たちに暴力を行使していた。つまり暴行罪の現行犯逮捕となる。

 一発逆転で俺たちは、その時点では加害者およびその重要参考人という立場から、不良中国人を加害者とする被害者となったのだ。

 俺は一瞬のこの逆転劇の中に、小姫の冷静な判断力と、頭脳の明晰さを感じざるを得なかった。


 中国人たちは護送車で搬送され、俺と小姫は別々のパトカーに乗せられて、新宿署に向かった。深夜の新宿署は、どの階も煌々と明かりがついていた。

 その後、また俺たちは別々の取調室で調書を取られたが、結論から言うと、その後の流れはすべて小姫が絵を描いた通りに進んだ。俺は、せいぜい「なぜ女を止めなかったのか」という説教を食らっただけだった。

 小姫も、最初は自分から殺人を犯したと電話したこともあり、厳しい取り調べが始まったが、病院から被害者は命に全く別状がないということが知らされた。

 加えて、蛇頭の反応も一分の隙もなく小姫の読みどおりだった。蛇頭は、アルコールを飲みすぎてよろけた拍子に景徳鎮の花瓶に後頭部を打ち付けたと証言し、断固として傷害罪での告訴を拒んだらしい。

 ドアが元人民解放軍に蹴破られる前に、小姫が中国語で走り書きをして蛇頭の内ポケットにメモをねじ込んでいた。おそらくそこに「殴ったのは私なので、罪を償ってきます」とでも書いておいたのだろう。


 こうなると、警察も完全にテンションが下がる。基本的に警官は自分の手柄になることにしか興味がない。こんなつまらない事件で調書をせっせと作っているよりは、早く違法滞在者に間違いない人民解放軍の軍服を着た男たちの取り調べに加わりたがっていた。

 当初、小姫と俺にはそれぞれ5名ほどの警察官が入れ代わり立ち代わりついて回った。

 しかし事情が明らかになるに連れ、明らかに新米刑事と思われる人間が、「この度は大変でしたねえ」という感じでたった一人で調書を作成していた。

 本音としてはこの刑事も中国人の担当に回りたかったのだろうが、おいしい役目は先輩刑事に持っていかれたとうことだろう。

 そんな雰囲気だったから、俺は連行された小姫のことも気軽に聞いてみた。小姫の方では、刑事は完全に蛇頭の証言を信じたわけでもなさそうだが、肝心の被害者が自分で転んで打ち付けたと言っている以上、警察としてはそれ以上どうしようもないという判断が下されたようだった。

「おふたりとも、調書を取り終わったら、身元引受人さえ手配できればもう帰れますよ」

 新米刑事はつまらなそうに事務作業をしながらそう言った。


 俺は、身元引受人を頼めるのはみゆきしかいないことにすぐに気がついた。小姫と深い中になっていたのだが、その時の俺はまだ、まったくみゆきの俺に寄せる思いなどには気がついていなかった。

 もともと、みゆきが子連れで俺の偽占いの屋台に寄ってくれたことから、話が始まったのだ。そのときには俺は、娘の誕生日で早引けしたみゆきが、むすめのあかりの深夜保育を早めに切り上げ、亭主のいる元に早く帰って親子水入らずで子供の記念日を祝うという誤解をしていた。

 だから、それまで一方的に好意を寄せていた俺が、完全にみゆきのことを断念したことになっている。そう信じて疑っていなかったのだ。

 このあと待っていた悲劇は、あのときの俺の思い込みに端を発するものだった。

 当時俺はみゆきのキャバクラの支配人の篠崎という男に金を貸していた。みゆきの住所は知らなかったが、この男に頼めばなんとかなるだろう。

 俺は警察の電話を借りて、篠崎を呼び出し、事情を話してみゆきに身元引受人を引き受けてくれるよう電話をさせることに成功した。当初渋っていた篠崎は、100万ほどの借金を棒引きにしてやると条件を出すと、とたんに愛想よく段取りをとってくれた。


「本来は身元引受人が来るまでは、拘置していないといけないんですが、まあいいでしょう」

 新米刑事はあいかわらずつまらなそうにそういった。俺と小姫は取調室から出され、刑事部の大部屋の来客用のソファで再び顔を合わせることができた。

 SATの襲撃から3時間が経ち、朝焼けのオレンジ色の光が窓から差し込んでくる時間となっていた。

 晴れやかな笑顔での再会だった。

 たとえは悪いが、小姫と福建省の茶畑で月明かりの下徹夜で茶を積み、やっと明け方にひと仕事終わったというような安堵感だった。

 そして、警察署を一旦出たら、お互いの身元引受人には丁寧にお礼をして、俺達はビジネスホテルにでも部屋を取って仮眠するつもりでいた。

「シンゴさんは身元引受人誰にしたの?こっちは、蛇頭の手下の一人みたいだけど」

 小姫が何気なくそう訊いた。

「ああ、天涯孤独の身なんでね、馴染みのキャバクラ嬢にお願いした」

「もしかして、みゆきさん?」

 この時すでに、小姫は自分に対する俺の深い愛情に微塵も疑いを持っていなかった。

 だから小姫は、「みゆき」と呼び捨てにすることなく「みゆきさん」と親しみを込めて呼んだ。これも、女性特有の愛されることによる精神的な余裕のようなものなのだろう。

「ああ、そうだよ」俺は何の気なしにそう答えた。

「あたしも会ってみたいな」

「へえ、どうしてだい。まあ別にかまわないと思うけど」

「だって私と瓜二つなんでしょ」

「そうだね、最初はそう思った。でも小姫とは随分違うかなと思うようになったよ」俺は正直に答えた。

「ねぇねぇ、やっぱりお会いしたいなあ。だって私に出会う前はその人が一番好きだったんでしょ。魅力的な人だと思うんだ」

 小姫はここが警察署の応接用ソファだということをすっかり忘れたように、俺の隣にピッタリと座り直して、俺にしなだれかかった。

「まあ、いいと思うよ。迷惑なこと頼んでしまったけど所詮は客とキャバ嬢の関係だしね」俺は自分が木っ端微塵に振られた(と一人で早合点の誤解をしていた)ことは伏せておいた。

「じゃあ、決まりね」小姫は腕を絡ませて幸せそうに天井を見上げて笑っていた。


 ちょうどその時、例のやる気のない新米刑事の声が大部屋の入り口から聞こえた。

「三崎慎吾さん、身元引受人の方が来られました。すぐに来てください」

「みゆきが来たようだな」俺は立ち上がった。

「じゃあ、みゆきさん見学に行こう!」小姫は腕を組んだままだった。


 俺たちは、刑事部屋の中をカップルがデートするように腕を組んで入口に向かった。

 みゆきの顔が次第にはっきりと見えてくる。思えば別れてからまだ一日も立っていなかったのだな、俺はそんなことを思った。

 近づくにつれて、みゆきの顔がこわばっていくのを俺は見て取った。

 さすがにキャバ嬢とは言え身元引受人を頼んだのに、腕を組んでというのは失礼な行為だったと俺は痛切に反省した。

 だが、みゆきの顔がこわばった理由はそれではなかったのだった。

 とりあえず腕を振りほどこうとしたが、今度は小姫が硬直したように腕を離さずに歩くのをやめてしまった。

 顔を覗くと、小姫の顔もまたみゆきと同じようにこわばっていた。


「小姫」

 みゆきが、小姫に向かってそう言った。

 小姫は無言だった。

 後で考えればその沈黙はわずかの時間だったのかも知れない。

 しかし俺にはとてつもない重く長く、黒い底なしの沈黙に感じられた。

 沈黙を破ったのは小姫だった。

「姐姐…」(お姉ちゃん)


 重く長く黒い沈黙は、さらに重く長く、その黒い底の深さを増した。


 どうしてそれまで気が付かなかったのだろう。

 小姫が俺にこう言ったことに。


「一朵能行的白牡丹♪」

「一輪の歩く白牡丹っていうと、可愛かったんだろうね」

「みんなに愛されていたわね」

「やっぱりな」

「ううん、違うわ。ヂィエ ヂィエ、私のお姉ちゃんがよ」


「小姫には素敵なお姉ちゃんがいるんだね」

「うん。まさに一朵能行的白牡丹♪」

「小姫のお姉さんだったらさぞかし美人だろうな」

「うーん。村では美丽的姐妹们 美人姉妹って言われてたけどな」


「じゃあ、二輪の白牡丹だね」

「まっさかあ、お姉ちゃんだけだよ」

小姫が楽しそうに笑った。


 月下の茶畑には美人の牡丹が二つ咲いていたのだった。そして中国大陸から時空を超えて、新宿警察署の刑事部屋でそれはまた、目も綾なる美しい白い花を咲かせたのだった。

 そして、その花がこの場所で並んで咲くことを、おそらく世界中の誰もが望んでいなかったことは間違いのないことのように思われた。


 おそらく俺は生きとし生ける者のルールとして、絶対にやってはならない背任行為を犯した。ただ、その恐怖の自覚だけはあったが、それがどうしてなのか、そしてこの後どういう結果を生むことになるか想像もできなかった。

 一切の時は、-273Cの絶対ゼロ度の世界にいるように、すべての生命活動を停止した。ただ、救いようのない沈黙だけがそこにあった。

 

 もう二度と聞くことはないと思っていたあの懐かしい曲が、そっと俺の耳の奥底で鳴り始めた。


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