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Alone Again...響く汽笛(10/全17回)

 生まれてはじめて最初の朝に何が見えただろうか。もちろん俺は覚えてはいない。しかし今ははっきりと言うことができる。

 生まれ直して初めての視界には、小姫の笑顔があった。

 俺は照れくさかったこともあり、服を身につけると「今度は俺も稼ぐぞ」と鼻息も荒く、小姫に深紅のチャイナドレスを放り投げた。

 小姫は俺が照れていることはお見通しで、苦笑いをしながら終始機嫌が良かった。

 しかし、事態は不穏な始まりを告げるかのようだった。

 ふたりとも衣服を着用し、VIPルームを出るときに小姫が支配人のような男を怒鳴りつけた。何度か男が平身低頭で説明をしているようだったが、小姫はしばらく男を中国語で叱り飛ばしていた。

「いったいどうしたんだい」

俺は驚いて、ポーカーテーブルに座った後で聞いてみた。

「スケベオヤジが今日に限って早めにオーナー室に入ってたみたい」

「君のパトロンさんだな」俺は、軽く嫉妬しながらそう言った。

「そう。いつもは他の自分の店舗を視察してからここには午前3時くらいにならないとこないのよ」

「うん」

「ところが、今日はあたしたちがVIPルームに入ってからすぐに店に来たらしいわ」小姫は怒りこそすっかり消えていたが、渋い顔をしていた。

「というと、まさか…」

「当然VIPルームには隠しカメラがある」

「……まずいよなそれ」

 小姫は直接的にはそれに答えず「エッチしまくってたの全部見られちゃってたよー」と口をとんがらかせて小声で言った後、大声で笑い出した。

 何事かと他の客が一斉にこちらを振り向いたが、小姫はおかまいなしだった。

「ってわけで、なんらかのアクションがあるわね」

「いよいよ死体となって、俺たちはどこかに運ばれるんだろうか」

 当然否定してくれると思って俺は聞いてみた。

「バカね、シンゴちゃん。死体で運ばれてどっかに埋められるのはシンゴちゃんだけだよ」

 俺は頭が真っ白になった。

「冗談だよね、それ…」

「うん。冗談だよ」小姫は、素のまんま答えた。

「あのさ、小姫」

「なあに、ダーリン」

「あのね、君にとっては当たり前の日常会話かも知れないんだけどさ、埋められるとかそういうの…」

「よく聞くのは、まあよく聞くかな」

「あのね、その…。一般人はドキッとするわけだ。しかも自分がそうなる危険性があるという場合は特に。しかも…」

「しかも、死ぬのは自分だけ。キャハハハ、おもろいなあ、シンゴちゃんは」

 小姫は人前で俺のあたまをなでなでし始めた。

「ママがそんなことはさせません」

 この小姫の仕草には、さすがの俺もすこし赤面した。

「でも、このままお咎めなしということはないよな」

 俺は小姫の手を乱暴に払い除け、咳払いをしてそう言った。

「そうね」小姫は他人事のようにつぶやいた。

「さっそくきたわね」

 小姫がディーラーが向こうから歩いてくるのを見てそう言った。

「誰だいあれ、君に会釈したようだけど」

「このカジノのナンバーワンディーラーの虞淵(グーウェン)よ。そして蛇頭の忠犬。スネークヘッドのためだったらなんだってやるわ。人殺しだってね…」

「俺を殺すんだろうか…」

「そうね、ポーカーで」

 虞淵と小姫が呼んだ男は、俺の前に来て最敬礼をしたあとに中国語で何かを言った。俺は全く分からなかったので、小姫をちらと見た。

「『虞淵と申します。特別なお客様に対して、私がぜひ一対一でお相手をさせていただきたく存じます』だってさ」

「そうか」俺は心臓が早鐘のようになるのを聞いた。

「逃れられないから、ひとまず勝負するしかないね、幸いチップは手つかずだし」

「そうだな…」

 しかし、何度やっても勝てなかった。

 小姫に多少自慢したように、非合法カジノで学生時代に100万ほど勝ったこともある。

 運が良かったと言われればそれまでだが、相手の表情によって掛け金を上げるレイズがはったりなのか、それとも本物なのかもある程度見分けられた。当然ハッタリのときはさらにレイズで引き上げ、相手を下りさせるか、そのままレイズを続けて相手を自滅に追い込めばいい。

 相手に本当にいい手が来ている場合には、突っ張ってレイズすることなく、ドロップをして次回に勝負を賭けることが長期的な勝利のポイントだ。初心者はたいてい目の前の損得にこだわって、自分から試合を放棄するドロップを選択しない。確かにベッドした最初の掛け金は全部持っていかれるが、損失を最小限にすることができる。

 後はこの厳格なルールをブレることなく自分に課すればよい。

 しかし虞淵には、表情が見事になかった。普通ポーカーフェイスと言っても、かならずどこかに癖が見つかる。メガネに手をやるとか、右手の人差し指をしきりにトントントンとテーブルに打ち付けるなど、三流心理学者でも分かる癖もある。

 それ以外にも短く深呼吸をする、右斜め上を頻繁に見るなど、それぞれのプレイヤーによって癖は発見できるのだ。そして、俺はその観察力がすごいと、その非合法カジノのディーラーに褒められたことがある。

 …しかし、虞淵からはそれがまったく読めなかった。

 非合法とは言え、俺が行ったところは堅気の連中の賭け麻雀に毛が生えたようなものだった。

 ここは違う。非合法カジノではなく、裏カジノなのだ。集まっている連中は堅気のカモもいるが、日本人であることを隠して遊んでいるヤクザ、筋金入りのチャイニーズマフィアなどが圧倒的に多い。

 いわば、ダウナー系非合法ドラッグで遊んでいる渋谷センター街のガキと、コロンビア産アッパー系のコカインを葉巻に仕込んで愉しんでいるその筋の上客の違いだ。俺は開始してそうそうそのことを思い知らされた。

 それに気がついたときは1500万円のチップは半分以下になっていた。

 加えて、虞淵はここぞという勝負時に、ストレートフラッシュやフォーカード、フルハウスなどの難易度の高い手を絶妙のタイミングで決めてくる。

 また、たった1枚しかドローしていないのに、ストックから持ってきたその一枚は、見事に虞淵の手札の中の欠落した部分を補っていた。

  おそらく難易度の高い手が次々と決まるのはボトムディール、たった一枚の欠落カードを引き当てて手札を完成させるのにはセカンドディールというイカサマが使われているはずだ。

 ボトムディールは、カードをシャッフルするときに、あらかじめ手元で難易度の高い5枚の完成形を作っておく。そして、それを丁寧にばらばらにシャッフルするように見せかけて一番下に隠した5枚だけをシャッフルしないのだ。ある時点でその5枚を抜き取り、自分の手札と総入れ替えをする。麻雀の積み込みに似ていると言えるだろう。

 セカンドディールはその名の通り、一番トップのカードを記憶しておき、対戦相手に配るときにそのカードを残して、2番目以降のカードを配っていくイカサマだ。例えばスペードの絵札絡みでストレートフラッシュを狙った場合、手元には確実に引けるスペードの13を残しておき、後一枚で完成というときに、通常通り上から順番に自分に配れば良い。

 途中、トイレに立つふりをして、付いてきてくれた小姫に「虞淵はボトムとセカンド使ってるか」と聞いてみた。小姫は「使っているはずだけど早すぎて私にも見えない」と答えた。

 もうすぐ1500万円分のチップがなくなりそうだった。俺は再度トイレブレイクを伝えた。このときはトイレに行くふりではなく、緊張のあまりトイレに行かずにはいられなかったのだった。

 その時もう一度俺は小姫に尋ねた。

「虞淵のイカサマの腕はどのくらいなんだ」

「虞淵は、蛇頭の命令で私にポーカーを徹底的に教えてくれた人よ」

 俺はそれを聞いて観念した。

 トイレから戻って5分もたたないうちに、1500万円のチップケースはすっかり空になっていた。時計を見るとわずか1時間半程度の出来事だった。

 小姫は平然としていた。

 小姫の財力から言えば1500万円など普通に損をする金額なのかも知れない。しかし、使っていいとは言われたものの、この金は何年かかってでも返すつもりでいたので、この結果は俺にずっしりと重くのしかかった。

 茫然自失状態だった俺のところに、さっきVIPルームの出口で小姫に怒られていたマネージャーが、こちらにやってこようとするのが見えた。

「シンゴちゃん。私が慰めてあげないから不満に思ってたでしょ」

 マネージャーがこちらに到着する前に小姫が口早に耳元へ囁いた。

「少しね」

 俺は強がってそう言ってみたが、正直言えば小姫にぐったりともたれかかりたいほど憔悴しきっていたのだった。

「ごめんね、いまここでシンゴちゃんを甘やかしてあげる時間は多分ないわ」

「どういうことだい」

 そこにマネージャーが到着し、俺に深々と頭を下げた。

「老板邀请你」

 もちろん意味はわからなかった。

 小姫の顔を覗き込んだ。

 観念したように小姫は言った。

「蛇頭(スネークヘッド)が、シンゴちゃんを自分の部屋に招待していますだってさ」

 これか、小姫がおれをいま甘やかすわけにいかないと言ったのは…。

 もとに戻せない運命の歯車。それがガタンと回転し始める鈍く軋んだ音を俺は聴いた。

 中国大陸を縦断する貨物船列車の蒸気機関車。これが今、ゆっくりと大きな車輪を回転させ、俺を乗せて走ろうとしていた。

 貨物列車と違っていたのは、乗客である俺にも小姫にも、行き先が全くわからないことだった。

 俺は不気味な汽笛の音がどこかで鳴るのを聴いたようだった。

 小姫を見た。

 いつもの小姫より少し緊張しているように見えた。

 あるいは、小姫も俺と同じ不気味な汽笛の音を聴いたのかも知れなかった。


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