【長編小説】真夏の死角 46 1944年8月15日の終戦
「ねえ、お兄ちゃん」
悠理はそう言って、ブリーフを履き学生服のスラックスのベルトを止め直した僕に微笑みかけた。
「一つ気になっていたんだが……」
「なあに」
悠理はすでにシャワーを浴び、ドレッサーの前で髪を丁寧に整えていた。さっきまで身を捩っていた悠理の均整の取れた無駄のない、しかしてに触れると無限の奥行きがあり、この手が吸い込まれるかと思ったその乳房は、純白のブラウスとのうこんのブレザーに固く守られてきちんとしまい込まれていた。
みだらな喘ぎ声がついっさきまで、この優等生然とした気品すら感じるこの顔立ちのその唇から漏れていたとは想像もつかなかった。淫靡な快楽はすべて悠理の持つ気品の中に丁寧にしまい込まれ、それを再び開くことはとうてい誰にもかなわないかのように思えた。
「何ってさ、そのお兄ちゃんっていう言い方だけど」
「うん、だってお兄ちゃんじゃない」
悠理はそう言って、豊かなボリュームの髪の内側に木目調の大きなブラシを潜らせ、丁寧に内向きのカールを作っていた。カールされるために一旦持ち上げられた艶のある髪はそのたびごとに、天井から注ぐ暖色系のゴージャスなシャンデリアの淡い光の中に光彩を放ち、英国の高級住宅のだだっ広い庭からめったに出る必要もないゴールデンリトリバーの毛さながらに、部屋の空間の一部に優雅に揺蕩っていた。
「でも、俺たち同級生だろ」
「何でそう思うの」
振り返っていたずらっぽく笑った悠理は、微笑みに遅れて首をわずかに傾けて見せた。
「いや、なんとなく」
「ほら、お兄ちゃんにもやっぱり分かるんだよね」
「何が」
「お兄ちゃん、本当は過去のこと分かるでしょ」
悠理はまたちいさく笑ったが、今度は少し真面目な顔をしていた。
「過去がわかるってどういうことだ」
僕は面食らってそう聞き返した。
「まあいいや。とにかく私の誕生日は8月15日なの。終戦記念日の日ね」
「そうか」
僕は唐突に悠理がそうつぶやいたことの意味がわからずにただ相槌を打った。
「そしてお兄ちゃんは3月11日」
僕は驚いて悠理を真面目な顔で見つめたと思う。
「なぜ知っているんだ、僕の誕生日を……」
「だって、あたしたち兄妹じゃない」
「いやたしかに、俺が3月11日で悠理が8月15日なら、たしかに俺が兄でお前が妹だ」
僕はたしかにこの時悠理のことを「お前」といったことを覚えているんだよ。もうすでに、完全に悠理のペースだった。
「じゃあ、兄妹じゃない。ばかみたい。これで分かったでしょ」
悠理はそう言ってドレッサーの前で身繕いが終わると、僕の方に歩いてきた。背の低い悠理は僕のすぐ近くまで来て、僕を見上げるようにして今度は笑わずに不思議そうに僕の顔を覗き込んだのだった。
「あたしのこと忘れちゃったの、お兄ちゃん」
忘れるも何も、その日僕は悠理と初めてあったはずだった。それとも、自分が覚えていないだけで、小さい頃どこかで会ったのだろうか……。僕はだんだんと、自分の胸の鼓動が自分の意に反して存在感を増してくるのを感じていた。
「小さい頃会ったことあるんだっけ、僕たち……」
「あたしが生まれた時から、ずっといっしょだよ」
僕は意味がわからなかった。
「お兄ちゃんが生まれたのは、1926年の3月11日」
「何だって……」
真顔でそういう悠理に僕は何だか恐怖を感じ始めていた。
「そして私はその後すぐ、1926年の8月15日。十月十日経っていないから、お父さんは同じでお母さんは違うね」
「戦前のことじゃないか」
「そうよ、やっと思い出したの、お兄ちゃん」
「どういうことだ」
悠理は僕の言葉を無視して、また蠱惑的な笑みを浮かべて話を続けた。
「そして、仲良く暮らしてたね。悠理はいつも、お兄ちゃんが恋人だったらよかったのになって。父親が同じじゃなかったら、恋人にもなれていっぱいキスして、いっぱいあれもして……。いつもそう思っていた。」
「なんかの冗談か」
冗談ではなさそうな圧倒的なリアリズムに押しつぶされそうになりながら、僕はそれに抵抗するようにつぶやいた。
「楽しかったね。でも、長くは続かなかったね」
「何が、どうして……」僕は混乱して、ただ悠理の言葉を促すだけだった。
「私たちが生まれた18年後の3月11日に、関東大震災を遥かに上回る東北大震災があったね、忘れもしない。1944年3月11日。当時私たち東北帝国の人間はそれをサンイチイチと言っていた」
「サンイチイチ……」
「そして、あれが東北帝国の誕生の日だった」
「東北帝国……」
「あたしたち小谷家の王国よ」
「小谷家の王国……」
「でも、長くは続かなかった、表向きはね」
「長くは、表向きは……」僕はただ、阿呆のように悠理の言葉を鸚鵡返しするしかできなかった。
「1944年8月15日、ちょうどお兄ちゃんの誕生日だったね、敗戦の日は……」
「ちょっとまて、8月15日は確かに敗戦の日だ。でもそれは1945年の話だろう」
「違うよ、この世界に来てお兄ちゃんはすっかり戦後教育にそまってしまって、小谷家のことも東北帝国のことも忘れちゃったみたいだね。日本史の敗戦の1年前に、日本はもう敗戦を迎えていたんだよ。そしてその敗戦を昭和天皇に決断させ、正史の1945年の敗戦前の1年前に日本の戦後処理を主導したたのが、私たちのおじいさん、小谷威一郎」
「悠理……」
僕は何らかの力にもはや観念するしかなかった。これから多分自分についての抗いようのない真実が悠理の口から告げられるのだろう。
「会いたかったよ、お兄ちゃん」
悠理はそう言って、つま先立ちをして僕の唇に自分の唇を重ねた。悠理の両方の目から涙が溢れていた。僕は呆然としてその悠理の涙を拭くでもなく、なにか悠理をこの世のものではない美しい存在としてただ眺めていた。
「今は2010年。1944年の敗戦から66年も経ってしまった。会いたかったずっと」
悠理はそう繰り返してまた、俺の唇を強く吸った。悠理の匂いが鼻孔を満たした。僕はますます分からなくなったが、それでも、これは何か正しいことが始まることの予感のようにも思えてならなかったんだ。
「来年、2011年3月11日。東北に大きな壊滅的な震災がある」
「そうなのか」
「まだ間に合うよ」
「分かった」
僕はもう何も聞かなかった。
その時、部屋が真っ暗になったんだ。一瞬停電かと思ったけどそうではなかった。漆黒の闇はいつまでも続いた。いつまでもこのままこの黒はこのままなのだと思い始めたその瞬間だった。
部屋に明かりが灯った。
古い洋館の応接間のようだった。
メイドが古風な格好をして大勢の客が帰った後の食器をテーブルから片付けていた。なにやらここで重大な会議が、重大な人物たちと今しがたやっと終わったようだった。
壁には古風な大きな据付の時計が刻まれており、その横には明治天皇の肖像画がでかでかと掲げてあった。
「そろそろ部屋にいこ」
悠理に手を惹かれた。
悠理を見ると、いつの間にか悠理の服装は学生服ではなく、どこかの戦前の華族のようなよそ行きのドレスアップされたいでたちをしていた。
部屋を出る時に、テーブルの上に無造作に置かれていた新聞の号外が目に入った。
「海軍ミッドウェイ海戦にて歴史的な敗北を喫すも皇国に揺るぎなし」
日付は1942年6月7日と、当然のように小さく書かれていた。
ただ、悠理の美しさだけは変わらなかった。
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