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【長編小説】真夏の死角 42 学校帰りの悠理
「小谷くん……だよね」
始めに肩に振られれて、その人差し指と中指の華奢な重みですぐに待っていた女性だとはわかったけど、声をかけられた後、僕は目の前の悠理を初めて間近に見たときに、この女がこれから30分も経たないうちに自分と裸で抱き合っているのだということが、どうしてもイメージできなかった。
昔から待ち合わせの場所には一人で早めにやってくる。初めての人間と合うときには特にそうだ。まず、自分がその場所にわずかでも溶け込むこと。そしてできれば、その場所から往来を通り過ぎる人間をじっと観察できるといい。街並みの中に、必然的にそこを通らざるをえない人間が、毎日の本の一コマ自分の前を通り過ぎていくとき、僕は無造作に偶然が重なり合って暴力的にひとまとめとされているこの空間に、もし、自分が爆弾でも仕掛けたらどうなるだろう……、そんな夢想をするのが常だった。
爆弾は否応なく、一生口も聞かなかった人間の運命に介入してそれを被害者という血まみれの、あるいは、手足を失った人間の原型を留めない塊として、ひとつの場所に集積する。
根本的な理不尽が、そのプロセスにおいて一度たりとも奇跡を起こさずに、偶然性を一切失わずに結末を迎える。この起承転結のまったく欠如した世界が、ほんの僅かな恩寵によって、もしかするとある美しい結晶に変わるかもしれない。
その時、佐々木周平が操る小谷周平はおのずから小谷周平が操る佐々木周平となり、世界は平板でありながらも絶対に交わることのない平行線が、非ユークリッド幾何学のように交点を持つように思え、その極点において自分は分裂しながらも一つの超越的な快楽的なものを手に入れることができるのではないか。
だから、それゆえに、佐々木周平にとっては東北の片田舎の、まだ自分が小谷周平であることに気が付かないときに覚え始めた自慰の感覚、さっきまで、窓の外から夜鳴きする鳥のさえずりが、興奮の中でいつしか消え去り、己の肉体の集約された下腹部のあのいきり立ったが核心部分が快楽とともに弾け飛ぶ時の、あの世界との一体感は、この雑踏の中で一つの爆弾が破裂することを幻視することときれいに重なるのだ。
今、この幻視をしている自分は佐々木周平なのか小谷周平。だから自分にとって、二つに分裂し始めた自分たちが、再び一つになるたったひとつの、唯一の時間があの布団の中で夢想する闇の中の自慰行為であったのだった。
まだ、待ち合わせには30分も時間があった。
いきなり肩に手をかけられて振り向いたそこには、国公立大学への進学率で全国でも有名な女子校の制服を着た女性が軽く、当たり障りのない、でも、覗き込むような目には子犬のような天真爛漫さをたたえて立っていた。
「橿原学園……」
これから売春行為に及ぼうとする女子高生が、自分の学校の制服を来て現れたのには驚いたが、悠理はまるでこちらの心の中を読むように笑いかけてきた。
「高偏差値の超お嬢様顔の、制服の上からは細身に見せてるけど、胸の大きな女の子がいきなり待ち合わせの時間の30分も前に来たことに驚いたのかな」
そういって、悠理は窓際のスツールに座っていた僕の横に体を捻って座った。たしかに体を捻るときに、ブレザーのベストの胸部に強烈な皺が寄り、コンのブレザーと白いブラウスによって上から締め付けられている豊かな胸の肉感が香った。
「何見てたの」
悠理は視線を前にやりながら、そのまま僕に聞いてきた。
「何も」
「うん知ってる」
だったら聞くなとは思わなかった。まるで、何だか僕の答えがとても楽しいことであるかのように、悠理は幼なじみがいつも見せるような笑顔で僕に白い歯並びの良い歯を見せた。
「ちょっと早いけど行こっか」
「ああ」
僕はトレイを片手にスツールを降りた。
降りる場所に悠理は体を移動していて、僕が降りるとほのかな香水の匂いが意外と背の低い悠理のウェーブの軽くかかった髪から、学校帰りの体臭とともに匂い立った。
鼻孔に悠理を感じたとき、そっと僕の手をさっき方に触れた手が触れ、触れた手は、そっと握られた。
小さな爆弾が僕の中で破裂したんだ。