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【長編小説】真夏の死角 1灼熱の蜃気楼
土埃が蜃気楼のように舞った。
澤田明宏は、なおもマウンドのプレートをスパイクの踵で擦った。二度三度と擦ると、そのたびに球場の紺碧の空に消えるように土埃が舞う。
キャッチャーの北村邦夫が沢田の眼を覗く。この期に及んで沢田の方から何か語りかけることはなかった。形ばかりのサイン交換をする。最初はパー、北村の右手の指がホームベースの手前で地面を向く。ストレートだ。
次に、軽く右方向、そして上。インコース高めのボール気味のストレート。打ち気にはやっている打者なら、澤田のストレートで簡単に仕留めることができる。
ただし、それは並の打者である場合だ。
打席に立っている左バッターは、脇を絞って脚のスタンスを極端に狭く取る独特の構えだ。顎をしっかりと強く引き、下から睨むようにして澤田の眼を刺すように見据える。
怪物の名をほしいままにするこの男。松木秀信はとても高校生とは思えない落ち着いた風格で澤田と甲子園球場全体を支配していた。
北村がサインの最後に右手で自分のユニフォームの臀部を軽く叩く。ブロックサインだ。この後何をするか。北村は右膝を2回叩いた。これは敬遠のサインだ。万が一サインが盗まれた場合に備えて、バッテリーはサイン交換のときにはこうしたカモフラージュをする。
しかし、このケースでそれは本当は必要がなかった。
試合が始まる前から監督には厳命されていた。松木秀信には全打席敬遠をすること。だからこのサイン交換は全部茶番にすぎない。甲子園という晴れの舞台を少しでも汚さずに、高校生らしいプレーをするには、それでもやる気があるということは示さないといけないのだ。
澤田明宏は思った。高校生らしいというのならばせめて勝負をするべきではないのか。チームが勝つこと、それは至上命題だ。しかし、チームの誰もが松木秀信に対する5打席連続敬遠を望んでいない。澤田、北村のバッテリーはもちろんのこと、内野手、外野手のすべてがそれを望んでいなかった。
もちろん打者の松木秀信も望んでいないだろう。そして、観客も誰一人としてそれを望んでいない。では一体誰がそれを望んでいるのだろうか…。
投球動作に入る。
澤田はランナーのいないこの場面で、先頭打者の松木に対してワインドアップで投球フォームをじっくりと作った。左足をやや伸ばし気味にして重心のためを低くとり、しなるような右腕のボールはグラウンドすれすれまで沈み込む。並の投手ならバランスを崩して審判にボークを宣告される場面だ。
この高校生離れした完成したピッチングフォームから投げ出されるストレートの威力はMAX151キロ。プロのスカウト陣にとって、この甲子園大会注目のナンバーワンは打者では松木秀信。そして、投手では澤田明宏だった。
右手を地面からゆっくりあげて掌を上向きにしようとしたその時、3年間甲子園の連続出場を一緒に戦ってきた北村が、立ち上がってホームプレートの右側でバンザイをするように手を上げた。
スクイズを警戒したホームスチールのウエストであれば、そのまま151キロのストレートを投げるところだ。
しかし敬遠の球に151キロを載せる意味はない。澤田は山なりのスローボールを北村のミットに上から置くように放った。
力のない球が北村のミットに吸い込まれるまでのほんのわずかの時間に、スタンドからため息とヤジが怒涛のようにマウンドに押し寄せる。
アルプススタンドはもちろん、敵の聖華学園一塁側スタンドからも、味方徳田商業からも、ため息とヤジが甲子園の熱気の中でうねりをあげてマウンドの澤田明宏を窒息させるように包み込む。
澤田は同じ動作を4度繰り返した。松木秀信は無表情でバッドを自軍のベンチに向かって一回転させ、紳士的に低く放り投げた。松木はマウンドの澤田を一切見ることなく、淡々と一塁ベースに向かった。
怒りはないようだった。しかし、松木の肩から憑き物が落ちたように力がすっと抜けるような感覚を、澤田は強烈に感じざるを得なかった。
「せめて、この俺を卑怯者を蔑むような眼で睨んでくれ」
澤田は左手のグラブで額の汗を拭いながら、目の端に映る甲子園球場のすべての打席を終えた偉大なスラッガー松木に対してそっと懇願した。
一塁ベースを踏んだ松木はそのまま、澤田を一度も見ることなく、ベンチのサインを確認して何事もなかったかのように頷いていた。
おそらく松木は一生俺の目を見てくれることはないだろう。澤田は覚悟した。
誰も望んでいないこの結果。
いや、しかし誰かは望んでいたのだった。
その誰か。いったいそれが誰なのかはこの時澤田は知る由もなかった。
試合は1対ゼロで徳田商業が勝ち、深紅の大優勝旗を手にした。澤田はキャプテンとして優勝旗を掲げ、チームメートとグラウンドを行進した。
土埃が舞う。
したたる汗にまぎれて、ナインの涙が乾いたグランドに吸い込まれる。
北村も涙を隠そうとしなかった。
しかし澤田明宏はなぜか泣くことができなかった。
いったい誰がこの結果を望んでいたのか。
それを突き止めなければ、永遠に俺の甲子園は終わらない。
朦朧とした意識の中で、澤田はもう二度と登ることのないピッチャーマウンドの足場を均すように、内野グラウンドの土をスパイクの踵で蹴りながら行進した。
土埃が舞った。
土埃はまるで姿をくらます真犯人さながらに、澤田の前から蜃気楼のように消えていった。
連載完了時に、みこちゃん出版より出版予定です。
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