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『THE NEW COOL NOTER賞』エッセイ部門応募作品 むずかしさとわかりやすさ ということについて

 メンデルスゾーンのヴァイオリンコンチェルトと言えば、難曲、つまりむずかしい曲と言われています。でもこれは、もっぱら演奏家側の問題なのです。

 みこちゃんは、むずかしさということに関しては、ちょっと違う解釈をしています。

 この曲は3楽章形式といって、三つの小さいパーツを一つの形式にまとめて、一つの大きな「協奏曲」にしています。

 一楽章目は何度かここに公開していますが、こんな感じ。

 曲の感じからいうと、なにやらむずかしいテクニック使っているいみたいですし曲も早いですね。

 こっちは第2楽章です。はじめの動画よりも簡単そうですよね。実際テクニック的には、ずっと簡単です。ゆっくりペースだし。

 でも最初第1楽章を弾いてから、2楽章を仕上げるまで2年かかりました。ちゃんと練習してたのかよ〜٩(ˊᗜˋ*)وと突っ込まれそうですが、もちろんしているんですけど、それ以外のむずかしさがある。

 例えば、子供が無邪気に笑うことは、子供にとってたやすいことだと思います。でもおとなになってなお、子供のように笑うこと。これはむずかしい

 そして晩年孫に囲まれて、またおじいちゃんとおばあちゃんは、再び子供の笑顔を取り戻す。私が第1楽章を弾いたのは,、生いきざかりの高校生1年の時でしたので、1楽章はどうだむずかしい曲弾けるんだぞー、という勢いで弾いていました。

 ところが、2楽章がむずかしい、とてつもなくむずかしかった。弾くだけならすぐ弾ける。でもまったくだめでした。弾けるというだけで、人様にお聴きいただくようなものに、どうしてもならない。

 だってそりゃそうです。企業戦士の方がなかなか子供のようには笑えないように、生いきざかりのバイオリン戦士は、子供のようには笑えない。第2楽章にはそんなむずかしさがありました。笑うこと自体はみこちゃんは天然なので、けらけら笑ってましたし、いまも笑っています。

 でも2楽章は、当時の自分の扱えない大人の音楽だった。

 ここで人が往々にして陥るのが、これをむずかしく理論的に追求して、ここはこの弾き方で間違いないはずだ、とむずかしさでわかりやすい美をねじ伏せることです。

 これは小説創作にも言えることで、シンプルにわかりやすく書けばいいのに、単語にこだわったり(漢和辞典がないと分からん)、奇妙な修飾語を使って思わせぶりな伏線をはったりすることです。ちなみにほぼ100%こうした小説は、実力不足の作者の見栄から始まっているので、伏線はオチで回収しきずに作者の自己満足の失敗作となります。

 なんのことはない。わかりやすく書けないから、むずかしさに逃避しているのです。これはだめです。

 一方で、じゃあ簡単にリラックスしてやればいのね、とにかくわかりやすさ一番!となるとこれも違う。

 悩み多き中高生が悩みごとを友達や先生に相談したくても、「それじゃ何言ってるかわかんないよ、もっとわかりやすい言葉で言ってくんない?」このように言われてます。

わかりやすさ

 でも、それがむずかしいんだよね。

 だって、わかりやすい言葉にまで無理やり整理された悩みというものは、もはや悩む必要もないはずのものだから。

 その根源的な悩みは一番聞いてほしかった友人や先生に届かず、いつか気持ちの整理という名で風化します。そしてその子は、やがてそのことを忘れ、快活な分かりやすい話で、人を笑わせることが得意なおとなになるかもしれません。

 だめだ。これも芸術ではない……。会社の報告書になってしまう……。

 わかりにくさでわかりやすさをねじ伏せようとする作者、そして、もっとわかりやすく書いてくれないかな、と会社の報告書を小説に要求する読者。どちらも不幸な関係にしかならない。


 そこからみこちゃんはもしかすると、本当の意味での芸術ってなんなんだろうと、極自然に考え始めたのかもしれません。

 この悩んでいる時代に出会った言葉が、ピカソのこれです。

ラファエロのように描くには4年かかったが、子どものように描くのには一生涯かかったよ。

 この4年間をすっとばして、みな音楽をやろうとする、小説を書こうとする。だから中身すっかすかのものにしかならない。もし、ピカソが最初からゲルニカを描いていたら、それはピカソがむずかしさによって、ラファエロのわかりやすさをねじ伏せたことになるのではないか……。

 ぴっきーーーん(゚0゚)悩める頭に稲妻が炸裂しました。 

 そして、この時みこちゃんは、自分なりに創作の奥義を手に入れました。

 それは表現においてわかりやすい入り口をこしらえて、中身の難解さ、むずかしさは、決して取り払わないでさらにそれを、わかりやすさで倍増させる。

 先程の1楽章は、弾くのむずかしい曲なのにすごいね!と拍手されたら終わり。しかしみこちゃんが追求してきた第2楽章のわかりやすさは、拍手が終わった後もなんらかの余韻があるはずです。仔細に曲を解釈していけば、メンデルスゾーンが2楽章で表現しようとしたのはとてもむずかしい世界でした。

 人間の生きていく上での悲哀、どうしようもなさが、わかりやすい音符の背後にしっかりと昇華されている。

 人間には、死と同じく避けられないことがある。
 それは、生きることだ。 チャップリン

 きっとこの世界を表現しているのだろう。そう気がついたみこちゃんは、苦悩、悲哀、どうしようもなさを経て生きることをしてきた人、その方たちが孫と戯れている光景を思い浮かべながら、第2楽章を仕上げていきました。

 わかりにくさと狭義の(一般的に言われている)むずかしさは違う。だから全体として(入り口と、その先合わせて)必然的に分かりにくいのはいいと思う。そうしか書けない作品なのならば、むしろ安易なわかりやすさよりずっといい。

 わかりやすい文章、わかりやすい音符の先に、もっと難しく避けられないことがある。

 多くのわかりやすい文章は、わかりやすい音楽は、チャップリンのいう避け得ないふたつのことのうち、片方の「死」から、その難解極まりない残酷な事実から目を背けて、わかりやすさだけを表現しようとしている。

 同じように、入り口に難解なもので塀を立てたがる人は、自分の空虚な中身を知られないように、入り口で誰かが入ってくるのを邪魔しているだけではないか。

 どちらも、芸術に値しない。

 このように考えれば、芸術とは高尚なものなんかでもないし、ましてやちんけな教養とかいうものとは、まるで関係がないことがわかる。

 わかりやすい表現と、その内奥にある深淵。この絶妙な組み合わせを受け手の目の前に提示するのが芸術家のはずだ。

 そうすると、必要なことは教養を身につけるのではなくて、正しい向かい合い方をして、真摯に小説や音楽に、自分が木っ端微塵になることを恐れずに、命をかけて付き合うことだとわかる。

 つまり芸術とはテクニックではなくてむしろ姿勢であり、芸術を実現するためのたゆまぬ修練だ。

 ここで、むずかしさとやさしさは、二律背反ではなくむしろ相互補完関係にあることがわかる。

 みこちゃんのイメージでは、他人から理解されない孤独な難解さを、やさしさをもって自分の手で助け起こすことかな。ミイラ取りがミイラになるように、時に深淵は自分の足元を脅かし、私をあちら側の世界に連れて行こうとする。でも自分が難解さに飲み込まれてもかまわない覚悟で手を引っぱる。

 これは、涼しい顔してクラシック音楽や、小説や、哲学書を解説するノンキな人間とは大違いの覚悟がいる、あなた方は本当に深淵を覗こうとしたことがあるのですか、と聞きたい。

 芸術をなめてはいけない。それは、むずかしさとわかりやすさに対しての、作者の生き様だからだ。

(以上本文2960文字)

この作品は、第3回THE NEW COOL NOTER賞~エッセイ部門への応募作品として、新規に書き下ろしたものです。


#第3回THE_NEW_COOL_NOTER賞_8月参加

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