Alone Again...Heavy Rain(4/全17回)
しばらくやんでいた雨が、また降り始めた。まるで仮面舞踏会の終わりを待っていたかのようだった。アスファルトを叩きつける雨の音はさっきより幾分強く響いた。
夢が醒め、仮面舞踏会は終わった。
俺はなんとかみゆきをエスコートできたのだろうか。みゆきは満足そうに見えた。俺はただ、疲れた。雨音はアスファルトの路面を駿馬がギャロップするように跳ね上がり、俺の脳髄の中にこだました。
「シンゴさん、今日はまだ占い師さんやるの?」
店で遊ぶときに使っている名前を何度か呼ばれたらしい。みゆきの口が動いていることだけが網膜を通過していく。ぼうっとして、頭と体が反応しない。
「ねえ」
みゆきは静かに、ゆっくりまばたきをしながら俺にそう尋ねた。
「ああ、こんな雨だしな。今日はこれでおしまいにするつもりだ」
いつもなら、こんな雨でも未だ営業する時間だ。しかしこのあと、偽占い師をやる気力は残っていなかった。いつものような演技が終わった後の、世界と女を小馬鹿にしたような高揚感はなかった。ただ、全身の脱力感のみが俺を鈍く取り巻いていた。
「そう」
みゆきが破顔した。みゆきの笑顔に救われる。
「よかったらうちに来て。そんなに遠くないの。タクシーで20分くらい。一緒にこの子の誕生日を祝ってくれたら嬉しいな」
「え」
予想外の言葉に俺はたじろいだ。
亭主が娘の誕生日ケーキを用意しているであろうみゆきの家に、この俺が行く。俺はみゆきの真意を疑った。いったいなんのために……。
「あかりも喜ぶと思うの」
あかりと呼ばれたみゆきの娘は、はにかむように少し笑った。いい笑顔だ。みゆきとそっくりな笑い方をする。
俺はみゆきの顔をどのように正視したらよいか見当もつかなかった。苦し紛れに、あかりと呼ばれた子供の目線に合わせるように、膝を折ってしゃがんだ。
「占いのお兄さんはね、これから行くところがあるんだよ」
俺はあかりの頭をなでながらそう言った。ずるい男がよくやる仕草だ。みゆきに聞かせるために、みゆきとは目を合わさずに、何も事情を知らない子供の頭をなでるのは便利だ。
ところが驚いたことに、あかりの目に明らかに失望感が浮かんだ。
妙だ。あかりのその眼は、まるで俺がこの誘いに乗ることをずっと以前から期待していたかのようだった。
「え、そうなの」
今度はみゆきの心底がっかりした声が、頭上から落ちてきた。聞こえなかったふりをしたかったが、そうもいかないので俺は占い師の椅子に座り直した。そしてテーブル越しにみゆきの表情を見た。
親子そろって、まるで双子のように悲しげな目をして俺を見ていた。
「ああ」
決して無下に断ったわけではなかった。しかし、出てきた言葉は、自分でも驚くくらいに冷たく聞こえた。おそらく途方も無い脱力感がそうさせたのだろう。しかし俺は自分の声の冷たさと、それを受け止めるみゆきとあかりの失望の目のコントラストに、決して交わることのない宿命のようなものを感じた。
――何年も後に知ったことだが、みゆきは俺が店に通い始める直前に旦那とは別れていたらしい。
みゆきは、自分の俺への思いを俺に伝えにやってきたのだった。そして、あかりはそのことを知っていたのだ。家では何度も俺の話をしていたと、後から聞いた。
「ママの好きな人を、あかりちゃんの誕生日に呼んで一緒にケーキ食べてもいいかな」
これは想像だが、みゆきはあかりに向かってこう聞いていたのかもしれない。
そして、あかりは、それを許した。子供心に、普段俺のことを話している時の表情を見て、本気で母親が好意を抱いていることを察知したのだろう。
この日、あかりが一緒にやってきたのは、俺を母親の恋人として認めるかどうかの審査だったというわけだ。みゆきが普段話している男のことを、あかり自身の誕生会に参加してもよいかどうかを判断するための……。
そして、俺はあかりに合格点をもらった。
だからこそ、「用事がある」だなどと嘘をついた時に、あかりはあそこまで失望の色を眼に浮かべたのだ。
しかし、この時の俺は、あかりの失望の眼の意味を知らなかった。
それは、俺が騙し続け、傷つけ続けてきた人間達からの、目に見えない復習だったのかもしれない。俺はいちばん大切な人の心の中すら見抜けず、その娘すらも容赦なく傷つけた。
とんだ百発百中の占い師もいたものだ。
しかし、俺はただ、一刻も早くこの親子の前から姿を消したかったのだ。
父と、母と、娘がいて、時間は遅いし一日遅れだが、誕生日を一緒に温かく祝う。そんな場に自分が入ってよいとは思えなかったし、そんなことできないとも思っていたし。
なにより、みゆきの前で演じきった自分に、ただどうしようもなく疲れを感じていた。
「いつもは占いのお仕事終わった後、まっすぐにお店に来てくれるじゃない。今晩は本当に用事があるの」
みゆきは悲しそうだった。
「ああ、女と会う約束があるんでね」
無論、嘘だ。
この言葉はきつい。なぜならそんな約束がないことは、みゆきのような鋭い女には、全てお見通しだからだ。つまり、そんな見え透いた嘘をついてまで「俺はお前らと誕生日を祝うつもりはない」ということだ。
みゆきがどう受け止めるかを分かっていて、俺は自分の口がそう言うのを許可した。俺にはもう、それしか選択肢がなかった……だが、これは薄汚い言い訳のようなものなのかもしれない。
アスファルトに打ち付けられた雨つぶを、タクシーのタイヤが上から押さえつけるようにして走っていく。水しぶきが上がる音がマスカレードの後のBGMに取って代わった。
仮面舞踏会は終わり、みゆきとあかりの眼からも、高揚感が潮が引くように消えていった。
「そっか、残念だったね、あかり」
今度はみゆきが俺と視線を合わせずに、あかりに語りかけた。
「でも、シンゴさんを見てもらってよかった。ね、言ったとおりでしょ。香取慎吾そっくりのイケメンお兄ちゃん! それでね、今日は偉い占い師の先生なんだけど、普段ママといるときは本当の慎吾ちゃんみたいに、いろんなお話をしてくれて、とってもおもしろいんだよ」
俺は雨を確かめるように、ガードから外に出てわざとらしく手のひらを差し出した。見れば分かる。確かめるまでもなく雨脚は強い。もちろん俺がそんなことをしたのは、頬の涙を雨の中に溶かすためだった。
滑稽な中学生以下の無様な男だった。
「じゃあ、またね。また明日はお店に来てよ」
背中から傘を差された。
「ああ」
俺は振り向かずにそう言った。
肩に手をかけてくれたみゆきの手を、上からきつく握れたらどんなに救われただろう。無論、そんなことをする資格は俺にはなかった。
二人が雨の中を帰っていくその足音が消えた頃、俺は後ろを振り返った。
去っていく足音はもう聞こえなかったが、二人の後ろ姿が映画のフェードアウトのようにゆっくりと消えていくのが見えた。
俺は、乱暴にテーブルと椅子を片付けてガード下の隅に運び、上からホームレスが使うようなブルーシートをかぶせた。
吸いかけの咥えタバコを、そのブルーシートの上に人差し指で弾いて捨てた。
なんだか、言葉のない国に行きたい。
残り火を見つめながら俺はそう思った。一切の、虚偽に満ちた言葉のない世界。俺の言葉など通じない世界だ。
火はシートに引火する力もなく、ゆっくりと灰色へと消えていった。
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