見出し画像

【長編小説】真夏の死角 5澤田明宏

「嘘だよね…」

 美姫は照明を暗くしたリビングのオレンジ色の光の下で、テレビ毎朝の人気報道番組「報道ABC」を見ていた。

 途中まで一緒に見ていた父親と母親は、娘に気を使って食事の後は美姫を一人にしてくれた。

 母親が温かい紅茶を入れてくれた。父親はブランケットを持ってきてくれて、エアコンの温度をリモコンで上げてくれた。

「明日も学校あるから、なるべく早く寝なさい」

 画面から目を離して声のする方をうつろに見ると、父親がリビングの出口でこちらを向いて立っていた。

 この家にも何度も遊びに来てくれた明宏のことは、父もよく知っている。父はまったく野球をしたこともないそうだが、プロ野球が好きだ。そんな父は、明宏と一緒に庭でキャッチボールをしたこともある。

「パパ、明宏とキャッチボールしたよね」

 美姫は動転した気持ちを少しでも鎮めたい一心で、父親に話しかけた。

「ああ、いい思い出だよ」そう言って父は自分の顎に手を当てた。

 美姫の父親の前歯は総入れ歯である。澤田明宏のストレートが受け止めきれずに、まともに顎で受けてしまったのだった。


 負けん気の強い美姫の父は、あの時こう言ってた。

「明宏くん、おじさんを舐めるな、もっと剛速球を投げてみろ」

 明宏は苦笑した。

 中学生で大人に対して苦笑する男の子を、その時、美姫は生まれて初めて見た。明宏はパパと対等なんだ…。そんな思いがその時美姫の心に生まれた。

 澤田が「はい」と清々しい声を出して、投球動作に入った。

 一瞬のうちに、澤田のいるなんの変哲もない美姫の住む家の庭は、野球場のマウンドと化した。まるで、アルプススタンドから観客の地鳴りのような歓声がしているようだった。

 まともに、顔面に澤田明宏の直球を受けた父親は血まみれになって蹲った。美姫は恐ろしいことが起きたということだけが分かった。明宏は驚きながらも冷静だった。

「美姫ちゃん、盥に氷を入れて、水を張ってすぐもってきて。あとタオル2枚。顎だから救急車はいらないけど、子供が驚いて呼んだということにすればあとから叱られることもない。すぐに手配して」

 そこまで美姫に大きな声で指示を出すと、明宏は「申し訳ありませんでした」と大きな声で深々と頭を下げた。

 美姫は後から何度かあのときのことを振り返った。普通だったら多分、取り乱すか、少なくともおろおろとした動作で父親に近づき、最初に泣きながら謝るのではないだろうか。

 後からよく考えると、子供がやることにしては順番が逆のように思えた。しかし明宏は美姫に的確な指示を出してから、血まみれになった口を拭き、取れた前歯をきれいに水で濯ぎながら、十分すぎるほど父親に真摯に謝った。

 父親はそのことを「大したやつだ、立派な男だ」と何度もおりに触れて思い出すように言った。今そうしているように、自分の顎に手を当てて満足気に語るのが常だった。

 手当をして病院から即日帰宅した父親に対しして、出かけていた母親は「ほんとにすごいわね、澤田君って」と言っていた。

「おい、少しは俺のことも心配しろ」父親は冗談で怒ったふりをした。

「いいえ、その程度で良かったのよ。あなたが年甲斐もなくあの澤田明宏の剛速球を受けようとしてバチが当たったんですよ。お話聞くと、なんだすごく大人でかっこいい。あの子が自分の息子だったらどんなに誇りか、なんて思っちゃったわ」

 母親は母親で自分の夫が大怪我をしたのにそんなことを言っていた。

「息子か、いいなそれ」父親も釣られて笑った。

「息子になるには美姫が結婚したらいいよな」


 美姫は考えてもみなかったことを言われてキョトンとした。

 そして、そのあとじわじわと自分の頬が赤くなっていくのを感じた。

 考えてもみなかったことなのではなかったのだ。意識して考えないようにしていたことを、いきなり不意打ちのように父親に言われて自分の隠していた明宏への思いが、いきなり何の準備もなく白日のもとにさらされたので、赤くなることを意識してコントロールすることができなかったのだった。

「お前まさか赤くなってないよな」

「それ以上言うと、顎に蹴りを入れるぞ、パパ」

「わははは、痛っ」父親は顎を大きく開けて笑い出した瞬間、激痛に顔を歪めた。

 父の笑いを引き継いで、美姫と母親は思いっきり笑った。

「パパの歯をへし折った男」

 美姫だけでなく、篠原家にとって澤田明宏との距離が縮まった日だった。


 絶対的な大人であった父親。一人っ子だったこともあって父親には溺愛された美姫だった。厳しいときには恐ろしいまでに厳しかったが、娘の美姫への信頼は篤く、大抵のことは普通の家よりも寛大であった。

「門限なんてないから、何時まででも遊んでこい」

 美姫が中学1年生の時、生まれてはじめて男女3人ずつでコンサートに行った。その時美姫の父親は、自宅まで美姫を迎えに来た中学生たちを前に、そう言って娘を送り出した。男子を含めて全員がその寛大さに驚いた。

「俺が美姫ちゃんとエッチなところに行ったらどうすんだあ」

 男子の一人が道を歩きながらおどけて言った。

「そんなところに連れて行かれたことパパが知ったら、あんた殺されるわ、アホ」

 美姫は上段回し蹴りで、セミロングのスカートのステッチの付いた裾を翻し、その男子の後頭部に蹴りを入れた。淡黄色のスカートが花のように優雅に舞った。

 正確には沖縄伝統空手の寸止めの技で、足の甲が首筋に触れたところでバレリーナのように足を上げたまま静止したのだった。

 男子は、その沖縄伝統空手の優美な蹴り技に驚嘆したように、一瞬静まった。しかし、そこは中学生男子である。

 すかさず男子の一人がポケットからスマホを取り出した。

「美姫のパンツ見えましたあ!スマホでばっちり撮りましたあ!真っ白でしたあ!鼻血ブー!」

 男子が下品に騒ぎ回った。

「てめー!スマホ没収だあ」

 美姫が追いかけ回す。

 もちろんコンサートに行く男子の中には、澤田明宏がいた。

 追いかけながら、追いかけるふりをしながら、美姫はそんな男子に加わらずにこちらを眺めている明宏をこっそり振り返った。本当は明宏を追いかけて遊びたかった。でも、明宏は少年のあどけなさの中にも少し大人びた顔をして立ってこちらを向いていた。

 明宏はあの時も苦笑していた。

 白けているわけではない。暖かい苦笑だった。一緒に逃げ回っていないのに、明宏はきちんとそこに参加していた。美姫にはそう思えた。まるで子どもたちが公園ではしゃぎまわっているのを、遠くから幸せそうな顔をして眺めている父親のように…。

 そしてそれが明宏には似合っていた。

 美姫は安心してスケベ男子を追い回した。

「美姫様の空手技を受けてみよーーースケベどもぉぉ、うるぅあああ」

 背後に明宏の優しいまなざしを感じながら無心に男子を追いかけ回すのは幸せだった…。美姫は知っていた。澤田明宏のまなざしが、そのまるで泣きたくなるような甘い幸せの源であったことを。


 美姫はいつしか、最愛の異性が父親から明宏に変わっていく自分を感じていた。

 そしてそれに呼応するように、父親は娘に対して適切な距離を取るようになった。たまにおどけて父は美姫にこう言った。

 「男親なんてつまらねえよなあ、誰か自分じゃない男のために最愛の娘を育て上げるんだもんな」

 その「誰か」が誰を指すか。もちろんだれもそんなことははっきり言わない。でもそれがなんとなく明宏であることは、篠原家全員の暗黙の了解であった。

 父親はこの調子で同じようなことを、自宅に遊びに来ていた明宏の前でも言ったことがある。

 美姫は恥ずかしかった。

 帰りに送っていった時に、なにか言いたかった。

 明宏もなぜか無言だった。

 いつもさよならを言う、あの橋が近づいてきた。

 このまま何も言わずに別れるのは嫌だった。

 自然と歩く歩幅が短くなる…。

 少しでも橋までの時間が伸びますように…。

 次第に並んで歩いていた明宏との距離が空き、明宏は先に橋にさしかかろうとしていた。

 時よ、とまれ!

 目をつぶって念じた。

 目を開くと、大きな夕日を背にして明宏がこちらを振り返って笑っていた。

「ごめんね、パパがあんなこと言って」

 やっとそれだけ、言えた。

 明宏は、距離が離れてしまった美姫のところまで戻ってきて、苦笑した。

 そして優しく美姫の頬に触れた。

 美姫は知らない間に泣いていたようだった。

 明宏は自分の指で美姫の涙を拭くと、そっと美姫の右の手のひらの上に自分の左の手のひらを重ねた。

 その日は無言で別れた。

 お互い「さよなら」は言いたくなかった。

 「さよなら」なんて言葉は必要なかった。

 これからも永遠に…。美姫はそう思った。

…… …… ……。

 リビングの椅子から転げるようにへたり込んで泣き崩れた美姫の肩を、父親が膝を折ってそっと抱いた。

ここから先は

0字
サブスクサービス「リベラルアーツみこちゃん大学」に入ると、月額100円で無料特典でお楽しみいただけます。

真夏の死角バックナンバーです。 サブスクサービス「リベラルアーツみこちゃん大学」に入ると、月額100円で無料特典でお楽しみいただけます。

期間限定!Amazon Payで支払うと抽選で
Amazonギフトカード5,000円分が当たる

この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?