【長編小説】真夏の死角59 六芒星魔球の正体
「田久保さん。毛沢東の肖像画に驚きましたか」
アイデルバーグが流暢な日本語で、まるでいたずらっ子のように目を透明に輝かせながら語りかけた。
「ええ、いやまあ。ここは何ですか、オーナーが中国人だとか……」
「もともとはそうじゃなかったんですけどね。この団地は公営住宅なんですが、運営しているのが公団でして土地は個人所有なんですよ。いわば自治体が個人から借り上げてそれを低額で提供しているということです」
「なるほど、そういう仕組ですか。ではここの土地のオーナーが中国人というわけですね」
「そうなりますね」
「田久保は広大なこの土地を一瞬頭に浮かべた。軽くゴルフホール二つ分くらいはあるだろう。その土地がすべて中国人の土地であるというのは驚きだった」
「何から何まで実は中国人の所有物ですから、実質上ここは中国の租界みたいなものです」
「租界……」
「ちょうど戦前の日本が上海などに日本の租界を持っていましたね。今は立場が逆転して、当時の日本のように軍事力による租界ではありませんが、経済力で実質的にこのように中国人の租界と同じになっている箇所は日本中にたくさんあります」
「租界というと、我々警察の手が及ばないというのが、警察官としての定義となりますが……」
アイデルバーグは田久保の頭の中を見透かしたようにこう言った。
「鋭いですね。私が言いたかったのはまさにそこです。それで田久保さんにはこの喫茶店でお話がしたかったのです」
田久保はアイデルバーグの考えていることを想像してみたが、見当はつかなかった。しかしいずれにしても、自分は何かを試されているという確信めいたものを感じた。
「租界ですから、非合法のギャンブルなども開催されたりします」
「非合法のギャンブル」
「ええ。今日私はここのオーナーに、私のギャンブル仲間の借金を返しに来たんですよ」
「借金ですか……」
「ええ。中国共産党の幹部の方々、それから人民解放軍、制服組の幕僚幹部レベル方々です。日本に何かと用事を作ってはここに遊びに来ますね」
「ここ?」
「このトイレの奥のドアを開けると、地下室の入口があるんですよ。そこが非合法カジノです」
非合法カジノ……。もちろんそれは警察官である田久保にとって聞き流すことの出来ない言葉であった。しかし、アイデルバーグはいったい何のためにそれを自分に言うのだろうか。田久保は無言でアイデルバーグの次の言葉を待った。
「おっと、そのカジノからオーナーが地下から上がってきたようですね」
アイデルバーグの視線に合わせて右奥のトイレの方向を振り返ると、ふくよかな満面の笑みをたたえた中国人が近寄ってきた。
「待ってたよ、アイデルバーグさん」
「周さん、ちゃんと借金返しに来たよ」
「何言ってるの、アイデルバーグさん、あなたの借金じゃないね。あなたはいつも、ギャンブル楽しいのに、ぜんぜんやらない。いつも共産党や人民解放軍の人たちの遊んで損した借金のお金払うだけね。なんでかな」
「それが仕事なんだよ」
「ああ、そうだったね。それで何か、私の知らないところでお金よりももっとすごいものもらってるんだったよね」
「まあ、そんなところさ」
「いいんだよ、それは私にはまったく関係のないことだからね」
周と呼ばれた男は、まるで友人に語りかけるようにアイデルバーグとの会話を楽しんでいた。
「じゃあ、3億円だから、3つでいいね」
「ああ、魔球でのお支払いか。そうだね。3億円キャッシュで持ってきたら大荷物だもんね。いいよ、もちろん。東北のあの魔球は純度が高いから3億でも3つになっちゃうね」
「そうだね」
アイデルバーグはそう言って、手に持っていた小ぶりのカバンに無造作に手を入れて何かを取り出してテーブルの上に置いた。
田久保は目を疑った。
いましたが景子の家で見せられた、籠神社から澤田明宏がもらったという、澤田明宏が魔球の練習に使ったと言っていた六芒星が形どられたボールが出てきたのだった。
「一応改めさせてもらうよ」
周はそう言って、いきなり魔球に手を伸ばし捻るようにして魔球の外側の絹で織られた装飾部分を剥ぎ取った。
「あ!金の塊だ!」
それまで無言だった槇村慶次が素っ頓狂な声を上げた。
「たしかに、この重さは間違いなく東北産の24金だね。これ3つで3億円、確かにいただきました。領収書はいらないよね」
周は笑いながらそう言った。
「もらってもイスラエル政府は、受領してくれないよ」
アイデルバーグはおかしそうに笑った。
「そりゃそうだね」周もつられて楽しそうに笑っていた。
「君が景子さんから聞いていた槇村クンか、よろしくね」
アイデルバーグは素っ頓狂な声を上げた後、まだ口を半開きにしている槇村慶次に語りかけた。
「あ、そうであります」
「景子さんから話は聞いているよね」
「何となくですけど……。一応今日は美姫といっしょに澤田の家に泊めてもらうってことで、家には言ってきました」
景子がそれを見てにっこり微笑んだ。
「はい、じゃあ、これ。今日の軍資金ね」
アイデルバーグはそう言って、まだ金の塊が露出していない、絹でコーティングされた魔球を一つ、慶次に渡した。
「ほんとに、これもらえるんですか」
「ああ。そうだよ、頑張って増やせるといいね」
「頑張りまっす!」
槇村慶次は、はしたなくも頬を上気させていた。
「はい。君が美姫ちゃんだね。よろしくね」
「はい……」
「どうぞ」
美姫は口こそ半開きにはしなかったが、目を丸くしてアイデルバーグから渡される魔球を受け取った。ずっしりと思い魔球に驚いた美姫はそれを落としそうになって慌てた。
「どういうことでしょうか」
同じように田久保にアイデルバーグが魔球を渡そうとすると、さすがに田久保は厳しい目をしてそれを咎めた。
「秘密諜報機関だけではなく、警察にも潜入捜査ってありますよね。それです」
「しかし……」
「もちろん、非合法のお金です。儲かったても全部損しても、それを神奈川県警に報告する必要はありません」
「いやしかし……」
「魔球のオーナーの景子さんがそう言うのだからいいでしょう」
そう言ってアイデルバーグは、事態の成り行きをだまって微笑みながら見ていた景子の方を向いて言った。
「まだ、魔球はいっぱいありますから、お気になさらずに」
景子は微笑んだままにっこりとうなずいて言った。
田久保は「いやしかし……」という言葉を飲み込んだ。何もかもがアイデルバーグのシナリオ通りに進行していることが気に入らなかったが、今自分は事件解明の大きな手がかりをつかもうとしている。そのことに間違いはない。
田久保は、ずっしりと重い六芒星魔球の金塊を受け取った。
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