公正世界仮説が実現する世界はユートピアかディストピアか
サヨク中村文則も左翼大江健三郎も良い作家だ
最近中村文則さんの小説をよく読んでいます。
小説が好きな方で、みこちゃんnoteの読者さんは?かもしれませんね。中村文則さんは小説世界もメディアの発言も完全なリベラルで、御本人もリベラルを自認しています。
でも、それを言い出すと、実はみこちゃんは大江健三郎の初期作品が好きで、愛読書もいっぱいあります。若い頃の大江健三郎作品の核の部分がずっと持続している。それが中村文則さんの作品という気がしています。
大江健三郎作品も中村文則作品も、深い部分で保守思想にもにもリベラル思想にも通じる確かなものを持っていると思います。
大江健三郎については、またいずれ書きたいと思いますが、今日は中村文則氏について。例えばかなり注目された作品でこういうのがあります。
公正世界仮説で読み解くと現代日本の病理がよく分かる
公正世界仮説という認知バイアスを扱っているということで、この小説はそういう観点からもいっぱい紹介記事があるのですが、あえて産経新聞のサイトから引用(笑)。そうです。確かな文学作品には右も左もありません。中村文則は保守派もファンが多い。
簡単に言うとこういうケースのことです。
深夜繁華街を歩いていた女性が暴漢に襲われました。というニュースが流れたら……。
こういうニュースが流れてきたら、私たちはそれをどう受け止めるでしょうか。多分(みこちゃんを含めて)大部分の人が、「そんな時間に女性がそんな場所歩いているからいけないんじゃないの」と思うのではないでしょうか。
いや、そんなことはない。一概にそうとはいえない、という人ももちろんいると思います。そういう人がいないと世の中ほんとにおかしくなってしまう。
でも、この事件……。
この事件の真実がどっちであれ、その事件の真実をよく知らないままに、被害者を擁護する人と、被害者が悪いという人とまっぷたつに分かれたのは記憶にあたらしいことです。
公正世界仮説とは、簡単に言えば、世の中は因果応報でできているという考え方です。
別の言葉で言えば、頑張った人は報われて、悪いことをした人には必ずバチが当たる世界だ、となるでしょう。
この、素朴な考え方。おそらく日本人の多くが子供の頃、親や学校からしつけられた考え方は、素晴らしいと思うし、これがないと生きるのが難しいし、そうじゃない世の中なんて生きていてもしかたがないとさえ思える。
でもよく見てみると、この理想社会、ユートピアには、実はギョっとするような事実も隠されています。
それは、頑張った人は報われる、という生きていく上での拠り所としたい考え方が、強固なワンセットの片割れであるひどい目にあったのは、きっとそれなりに理由があったから、という考え方と切り離せない構造になっていることです。
深夜繁華街を歩いていた女性が暴漢に襲われました。
この言葉を聞いて、脊髄反射的に、そんな時間にそんな場所を女性が歩いていたのが悪い!と思ってしまう本当の理由は「自分は正しく生きているからそんな行動は取らない」と、自分を正当化することとワンセットになっているところにあるのです。
被害者非難を誰でもやっている日本社会は異様だ
これを、公正世界仮説では「被害者非難」と言いいます。
Aを選ぶかBを選ぶかは紙一重ですよね。
おそらく、現在正社員の人はAを選ぶ人が多いし、現在派遣、もしくは失業中の人はBを選ぶ人が多いでしょう。
さてここで、みこちゃん的にこのトピックスを展開させます。
問題文をそのままで、選択肢を下記のように変えてみてください。
A.能力や仕事探しの努力が足りないせい
B.アベ政治に問題があったせい
さらに、これを下記の問題として考えてみるとどうなるか。
アベ元総理が選挙応援演説中に、旧統一教会にはまった母親のせいで家庭をめちゃくちゃにされた男性に殺されました。
A.母親、本人、つまりその家庭のせい
B.モリカケサクラの安倍のせい
おそらく、安倍政治で自分の暮らしが悪くなったと思っている人は、Bを選ぶでしょう。それはさっきの問題で、現在派遣、もしくは失業中の人がB.社会の構造に問題があるせいを選んだのと同じ構図です。
そしてモリカケサクラは、殺されたこととは何の関係もないのですが、モリカケサクラのようなことをやる極悪非道の人間は、殺されて当然という考えも、公正世界仮説から生まれてきます。
この場合には、自分は危険な時間に危険な夜道を歩いたりしない、という例と同じですね。
自分は正しく生きているのだから、凶弾に倒れることはない、とワンセットになっているので、そのような事態に見舞われたのはそうなっても仕方がない理由がある、と断定することが容易になるし、そう断定することで返って自分自身がきちんと生きていることを実感できるわけです。
世の中にたくさんある生きにくい現実を、そう感じている個人の目線から直視する社会とは
先に引用した、中村文則さんは産経新聞のインタビューでこう答えています。
この安倍元総理殺害テロ事件は、どうして山上容疑者はあのような暴挙に出てしまったのか、という山上容疑者の生きにくい現実を、そう感じている個人の目線から直視する(中村文則)という視点がまったくないのです。
奇妙なことに、ここは保守もリベラルも同じ間違いを犯している。
リベラルは、嘘つき安倍元総理の人間性のひどさと、ひどい安倍の母体である腐りきった自民党が全部悪い、ってことにしてます。
そして、保守もまた(論壇も自民党も)、山上容疑者の母親や本人、家族の問題、つまりカルトかもしれない団体に自分の人生を賭けてしまわないと生きられないという、同じ日本人として涙出るような悲惨な現実には目を向けず、リベラルの主張に防戦一方です。
問題はそこじゃない。
深夜繁華街を歩いていた女性が暴漢に襲われました。を再考する
「どうして、そんな時間にそこを歩いていたの?そうせざるを得ない理由があったの?事情を聞かせて。」
これが、生きにくい現実を、そう感じている個人の目線から直視する態度ではないでしょうか。
親だったら、多分そう聞くと思う。
では、親でなかったら、こういう聞き方をしなくてもいいのか。
いや、そうじゃないだろう。
親でなくても、赤の他人にもこういう聞き方をする社会こそが、ほんとうの意味で公正な社会、ありえないかもしれないけど、求めたい、求めていきたいユートピアなのではないだろうか。
それは、どこにもないユートピアなのかもしれない。でも、公正世界仮説というまやかしのユートピアを信じ続けることは、やがてディストピアを生み出すのではないだろうか。
山上容疑者減刑嘆願運動こそこの世のディストピアである
最後にもう一つだけ大切なことを。
これは、山上容疑者の減刑嘆願を肯定することにはなりません。いや、それどころか、みこちゃんは山上容疑者の減刑嘆願はとんでもないと思っています。
それは、罪を憎んで人を憎まずに似ているんだけど、ぜんぜん違う。
罪を憎んで、の部分が抜け落ちているのです。
世の中を良くしていこう、本当の問題に目を向けていこう、という態度があっさり抜け落ちている。これではディストピアまっしぐらです。
安倍元総理は無念にもなんら正統な理由なく命を落としました。
テロによって元国家元首が命を落としたのに、その罪を薄っぺらい情緒で棄却しようとしている。
最大の被害者は安倍元総理であり、被害者を非難するのではなく、被害者が二度とでないようにしていくのが世の中をよくすることでしょう。
ところが、減刑嘆願している人は、安倍元総理は殺されて当然の人間である、という前提は変えないまま(つまりまるごと公正世界仮説を信じたまま)、山上容疑者の生きにくい現実を、そう感じている個人の目線から直視する態度はまったくとらずに、お手軽に気分良く、公正世界仮説を実行しようとしているのです。
山上容疑者も安倍政治の犠牲者の一人なんだから、救ってあげよう。これは、安倍元総理への恨みを山上容疑者救済ということで晴らそうとした、きわめて非論理的な傲慢な態度ではないでしょうか。
こういうのを、江戸の仇を長崎で討つ、っていうんだと思う。つまり、山上容疑者の不幸に向き合わずに彼を自分の私怨に利用しているわけですね。人間として最低だと思う。
この事件の最大の被害者は誰がどう考えても安倍元総理です。
動機は、江戸の仇を長崎で討つということなのに、そこに減刑嘆願という、なにやら弱者救済という甘美なおまけまでついてくるから、やってる方としては、自分の身銭も切らずにおいしいところだらけといえるでしょう。
この問題は突き詰めて考えたいところですが、すでに、ここで極めて高度な議論がなされていますので、それをご紹介するにとどめておきます。
盟友庵忠さんのnoteですが、私と庵忠さんが仲がいいのは、同じ保守だからじゃないんですよ。
私も庵忠 茂作さんも、リベラルの中村文則さんと同じく、生きにくい現実を、そう感じている個人の目線から直視する態度において一致しているのです。
でも、まあ保守がつるんでいる、と思われているんだろうな(笑)。
リベラルも保守もないんだよ。
今の日本が抱える問題はそこじゃない。
もっと、病理の根は深い。
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