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サムハラ信仰ってなんだ?謎の民間信仰に迫る

ようこそ民俗学研究室へ、主任研究員の天道巳弧です。
今回はマイナーだけど歴史のある民間のまじない「サムハラ信仰」を解説します。
素敵な信仰なので良ければ生活に取り入れてみてください!サムハラ!

音声で聞きたい方はこちらをどうぞ↓


◆サムハラ信仰と千人針のお守り


サムハラという四文字は、日中戦争中に弾丸除けのお守りとしてよく使用されていました。
この文字は、千人針だけでなく、衣服に書き込まれたり、紙に書いて持ち歩いていたり、戦時中に広く信仰されていたようです。
サムハラ信仰は弾丸除けの信仰として知られていますが、その起源は江戸時代でした。
江戸時代では怪我除けや虫除け、地震除けなど様々なご利益があったようです。

江戸時代の随筆『耳嚢』などには、サムハラという特殊な文字や符号が頻繁に紹介されています。
明治時代に入り、日清・日露戦争を経て、サムハラは兵士たちの弾丸除けのお守りとして広がりました。
特に田中富三郎という人物の活動が、サムハラ信仰を全国に広めるきっかけとなり、現在のサムハラ神社へと引き継がれています。

◆江戸時代のサムハラ信仰

江戸時代のいくつかの文献にはサムハラ信仰の記述があります。

〇『耳嚢』巻之二「怪我をせぬ呪い札の事」

天明二年の春、新見愛之助という御小性が、登城中に九段坂で馬が驚き、深い堀へ馬ごと落ちました。
しかし、彼は怪我ひとつなく、そのまま登城を果たしました。
この話が広まり、周囲から「何か特別な守護があったのでは?」と尋ねられると、愛之助は「特に守護の品は持っていなかったが、一年ほど前、不思議なことがあったとして、領地の者から守護札を送られた」と答えました。

その守護札は、愛之助の領地の者がある日、日野で雉子を射った際の出来事に関係していました。
彼が雉子に矢を放つと、普通なら倒れるはずの雉子が無傷で立ち続け、他の弓術の上手も同じ結果に驚きました。
その後、捕えた雉子の羽に不思議な文字が記されていたという話です。

〇『淡路国風俗問状答』「蝗風等を避る咒の事(蝗害を防ぐ呪いの祭り)」

淡路国の鳥飼下村にある実盛神社(さねもりじんじゃ)では、6月の初亥日(はついのひ/亥の日の最初の日)に蝗除けの祭りが行われます。
この祭りでは、鏡餅、洗米、神酒などが供えられ、参拝者は「サムハラ」という文字が書かれた守り札を受け取り、それを田畑に立てます。
この守り札を使って、蝗害などの虫害を避けようとする風習があったようです。

また、鳥飼上中下の三つの村でも同じ日に「虫送り」という行事が行われています。

「サムハラ」の文字が書かれた守り札については、他の文献にも記載があり、尾張国の人々がこれを見て作ったとも言われています。

〇『難波江(なばえ)』


文政四年に編纂された『扁額軌範(へんがくきはん)』に、淡路の一つの梵利(仏教寺院)に斎藤実盛の牌(お札)が安置されており、その牌の裏には「サムハラ」という四文字が記されていたが、その意味は不明であると述べられています。

また、筑前国(現在の福岡県)で捕らえられた鶴の羽に小さな牌がついており、その牌にも「サムハラ」の文字が刻まれていたという伝説が紹介されています。
この伝説によると、その鶴は源頼朝が放したものではないかと言われ、「サムハラ」の符は長寿をもたらすものだとされています。
さらに、別の説では、この符を身に着けていると転倒しないと言われ、近世ではお守りとして広く使われていたとのことです。

また、『耳嚢』巻之二にもサムハラに関する記述があり、新見愛之助の怪我をしなかった呪札の話と関連して紹介されていますが、その詳細はここでは省略されています。

〇『仙境異聞(せんきょういぶん)』


慶長年間(1596-1615年)に、大樹公(おそらく徳川家康)の狩りの際、鶴の羽に「サムハラ」という文字が見つかったという話があります。
この文字は、怪我を防ぐ力があるとして、「サムハラ」という四文字を記した板形のお守りとして使用されるようになりました。

寅吉という人物が述べたところによると、この「サムハラ」という文字は仙人が常に謡っている符字のようなものであるといいます。
寅吉は、仙骨(仙人の骨)を持つ人物が唱える符字の中に「ジヤク、コウ、ジヤウ、カウ」という音が含まれているのを聞いたが、詳細まではわからなかったと語っています。

〇『宝暦現来集(ほうれきげんらいしゅう)』


文政三年、虎吉という男性が15歳の頃から天狗に仕えたという話が広く知られています。

その伝えの中で、慶長三年に大樹公(おそらく徳川家康)の狩りの際に、鶴の羽の裏に「サムハラ」という文字が記されていたとされます。
この文字は怪我を防ぐ力があるとされ、守り札として使われるようになりました。

別の説では、紀伊国に一人の弓に秀でた男性がいました。
彼は百発百中の腕前を持っていましたが、ある雪の日に鶴を射ると、どうしても矢が当たりませんでした。
不思議に思い、鶴を捕らえて調べると、その羽に「サムハラ」という文字がありました。
彼はこの文字が守り札であることを悟り、その後もこの守りを身に着けていたため、終生怪我をしなかったと伝えられています。

また、江戸時代後期の僧侶・徳本上人(とくほんしょうにん)もこの話を語り、天明五年(1785年)に江戸幕府の御家人だった新見長門守殿が馬とともに堕ちても怪我がなかった際、この「サムハラ」の文字を持っていたためだとされています。
さらに、京都で地震があった際、吉田家からこの守り札が配られた人々が無事だったことも記されています。

〇 『異聞雑稿』


江戸幕府の第10代将軍・徳川家治(とくがわいえはる)の御代、天明二年(1782年)5月15日、新見愛之助という御小性が登城の際、田安門の外で馬が突然驚いてしまい、馬ごと牛が渕に落ちました。
しかし、愛之助は怪我ひとつせず、番所に戻り、衣類を着替えてからそのまま登城しました。

この話が徳川家治様の耳に届き、「何か特別な守りを持っていたのか」と尋ねられた際、愛之助は「サムハラ」という四文字を懐に入れていたと答えました。
この話を聞いた徳川家治様は、さらにその守りの由来について尋ねました。

愛之助は、この守り札は紀伊光貞卿が国許で鷹狩を行った際に得たものであると説明しました。
そのとき、鉄砲で撃っても当たらない不思議な雉子を捕まえたところ、その羽に「サムハラ」の文字が記されていました。
この文字を鉄砲の的の裏に貼って撃つと、玉がそれて命中しなかったといいます。
光貞卿は、この霊符(れいふ/霊験あらたかなお札)を紀伊家の縁者から譲り受けたものだと伝えました。

その後、徳川家治様はこの霊符をお側にいた者たちに写させ、それぞれに与えたといいます。

天保六年(1835年)、江田彦吉という武士がこの話を聞き、さらに新見愛之助の話が世間で広く知られていたこと、そしてその霊符が実際に見られていたことを記録として残したという内容です。

〇『提醒紀談(ていせいきだん)』「符字」

世間では、「サムハラ」という四文字が書かれた護符が、怪我除けとして効力があることが知られています。
この符字の由来については、いくつかの説が伝わっています。

一つの説では、寛永二年(1625年)3月の晦日、将軍家が狩りを行った際、鷹が大きな雁を捕え、その雁の胸に「サムハラ」と書かれた四文字があったという話が記されています。
実に不思議な出来事だとされます。

また、寛文八年(1668年)には、紀州に住んでいた鉄砲師・吉川源五兵衛が江戸にいた時、大宮鷹場の中吉野村で白い雉子を狙って撃ちましたが、どうしても命中しませんでした。
結局、罠を使ってその雉子を捕まえると、その背中に「サムハラ」と書かれた文字がありました。
吉川はこの文字が怪我除けの符であると考え、その後、この文字を書いて銃で試し撃ちをしてみたところ、何度撃っても命中しなかったといいます。

さらに、天明二年(1782年)の春、新見某という人物が九段坂で馬に乗っている時に落馬し、深い牛ケ渕に転落しましたが、彼も馬もまったく怪我をしませんでした。
この話を聞いた人々は、不思議に思い、何か特別な護符を持っていたのか尋ねました。
新見は、自領で雉子を射ようとしたが、矢が当たらず、捕まえてみるとその羽に「サムハラ」の文字があり、その文字を写して懐に入れていたと答えました。

他にも、『耳嚢』には、筑前福岡で捕らえた鶴の翅に「サムハラ」の文字が記された小牌があり、それが長命の符字であると書かれています。

これらの説はまちまちですが、「サムハラ」の符字を持っていた人々が危険を免れたり災難から逃れたことが多かったことが記録されています。
しかし、この文字はどの辞書にも載っておらず、その正確な意味や発音を知る方法はありません。
ある説では、出羽国仙人堂で「さんばさんば」と唱えられ、天狗に教えられた白石平馬が「じやくこうじやくかく」と読んだとされています。
この話は、まるで夢の中の出来事のようですが、異聞として記録されているのです。

〇『地震用心考(じしんようじんこう)』


仙家(仙人の家)の護符には、「生類無難、怪我除け」として知られる符があり、この符を身につけたり、家の柱に貼っておけば、地震や火災などの災難から免れることができるとされています。
これは、日常生活の用心の一つとされています。

この符字は「ジャクコウジャクカウ(サムハラ)」と読まれ、安政元年(1854年)寅年の11月4日の大地震の後も、地震が続く中で尾張名古屋では、藩主の命令により、この怪我除けの符を身につけることが推奨されました。
この際、名古屋の商人である入船屋忠八という人物が、1万枚の符を人々に配ったことが記録されています。

また、東海道の池鯉鮒(知立)にある明神の蛇除け守りも、この四字の符字と同じものであるとされています。

さらに、筑前国福岡領で捕らえた鶴の羽にも「ジャクコウジャクカウ」の四字が書かれていたことがあり、この鶴は仙人が書き記して放したものと考えられ、その鶴は再び放たれたといいます。
また、淡路国のある寺に斉藤別当実盛の位牌が納められており、その位牌の裏にもこの四字が彫られていたことが記録されています。
これも怪我除けの効果があるとされています。

さらに、江戸時代の十代将軍家治公の御代、天明二年(1782年)5月、江戸で新見杢之助という御小姓が、登城の際に馬と共に牛ケ淵に落ちましたが、怪我一つしなかったという話が伝わっています。
この事件が上聞に達し、将軍家から「何か特別な護符を持っていたのか」と問われた新見は、この符を持っていたことを報告しました。
彼の符は紀州家からのもので、紀州光定卿が鷹野で雉子を撃った際、鉄砲が当たらず、雉子の羽にこの四字が書かれていたことが確認されました。

寛永二年(1625年)の3月晦日には、将軍家光が鷹狩りを行い、大きな雁を捕まえた際、その雁の胸に「サムハラ」の四字が記されていたという話もあります。
これらの鳥は幽界(異世界)の神仙が符字を書き付けたものであり、人間が持つことで怪我を防ぐことができるとされています。

◆明治時代のサムハラ信仰

「サムハラ」という符字(護符)が江戸時代に怪我除けや虫除け、地震除けなど様々な用途で全国的に信仰されていたことは確認されていますが、その信仰が明治期にどう展開されたかについては、現在のところ具体的な資料が見つかっていません。

しかし、明治期に入ってからも「サムハラ」の信仰が一部で継続していたことを示す証拠として、日本刀の銘に「サムハラ」の文字が彫られていた例が存在します。
特に、明治の刀工・宮本包則(みやもとかねのり)の作品に「サムハラ」の四字が刻まれていたことが注目されています。

宮本包則は、明治19年に上京して伊勢神宮の御神宝の太刀を受注し、靖国神社境内で製作、納入した直後の明治21年に最初の「サムハラ」を刻んだとされています。
このことから、彼が江戸期から続いていた「サムハラ信仰」を東京で知り、それを取り入れた可能性が高いと推測されています。

実際に「サムハラ」の文字が刀や太刀、短刀に銘文として彫られていることは、この信仰が刀工や武士の間で護符としての役割を持ち続けていたことを示唆しています。
宮本包則の例は、明治期の「サムハラ信仰」の一端を垣間見る貴重な証拠であり、江戸時代からの信仰がどのように継続され、あるいは変容したのかを考察する手がかりとなるでしょう。

「サムハラ」文字が再び注目を集めるのは、明治37年(1904年)3月4日付の『都新聞』で「不思議の四文字」として紹介されたことがきっかけです。
この記事では江戸時代の随筆をいくつか紹介した後、玉尾需(たまお)という人物が日清戦争で用いた例が述べられています。
このことが話題を呼び、種々の質問が寄せられたため、3月7日付の『都新聞』では、サムハラの読み方が不明であると説明されました。

さらに、同年3月18日付の『神戸新聞』では「サムハラの字義に就て」という題で、サムハラ文字の読み方と意味について解説が加えられています。
学者の大槻如電(おおつきじょでん)が、「サムハラ」は梵語(古代インドの言語、サンスクリット語)であり、インドの古語で「サムハラ」と読むとしています。
この時点ですでに「サムハラ」という読みが定着していたことがわかります。

玉尾需の事例はその後、『滑稽新聞』にも「滑稽迷信奇なる護身札」として取り上げられています。
玉尾需は、日清戦争に際し、自分の三男が従軍した際に「サムハラ」の護身札を帽子の中に貼り付けたところ、何度も戦場に立ちながら無傷であったという実例を語っています。
この護身札を数十万枚も製作し、出征する軍隊に寄贈したというエピソードが紹介されました。

この玉尾需の事例は、後に田中富三郎の活動の基礎となり、さらに松田定象の『妙術秘法大全』という易学の書にも記され、サムハラ信仰の一部として受け継がれていきました。
この時期に「サムハラ」文字が再び注目されたことが、近代における信仰の復活に繋がったと考えられます。

民俗学者の柳田国男もまた、サムハラの守札について言及しています。柳田国男という記述からも、サムハラ信仰が日露戦争の時期においても広く認識されていたことがわかります。

現在、サムハラが記された千人針として最も古いとされる実物は、靖国神社内にある戦争博物館・遊就館(ゆうしゅうかん)に所蔵されています。
この千人針は、昭和7年(1932年)2月21日に戦死した高橋祥太郎という人物のもので、展示図録には「サムハラ」と記された千人針が紹介されています。

また、民俗学者の岩田重則(いわたしげのり)によると、静岡県三島市小沢(こざわ)にある竜爪(りゅうそう)神社が所蔵する「竜爪山祭典帳」にもサムハラ信仰の痕跡が見られます。
昭和7年2月の記録に、「昭和七年二月前島家ニテ出事ニ致しました弾丸除(たまよけ)」として、サムハラ文字が木版で押されたものが残されているとのことです。

曹洞宗の僧侶・大森禅戒(おおもりぜんかい)が昭和10年(1935年)に『大法輪』誌で発表した「梵字・梵語の話(第三講)」では、「サムハラ文字が日本軍事及び民間で広く受け入れられている中で、特に日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦中の大陸の青島(チンタオ)攻撃、満州事変、日支事変(日中戦争)の際に、多くの出征兵士が弾除けの守符としてサムハラの四文字を所持した」ことが記されている。

さらに、日支事変(日中戦争)においてサムハラの不思議な力が現れたとされ、それ以降この四文字はますます民間でも信仰されるようになりました。
特に消防署員、自動車運転手、船員、飛行家などがこの文字を万年筆や携帯品に彫りこんで持ち歩きました。
女性もサムハラ文字を簪に彫り身に着けたそうです。

また、のちにサムハラ神社を創建する田中富三郎に関しては、彼が万年筆業を営みながらこの功徳を深く信じ、サムハラの文字を彫った万年筆を製作し、日支事変(日中戦争)に出征した将兵や政財界の諸名士に贈ったと記されています。
これらの万年筆は、ギャングよけとしても使用され、受け取られた多くの軍人や政治家から礼状が送られたそうです。

こうしてサムハラ信仰が広まると、今度は戦争に赴く兵士の家族が弾除けのまじないとして作り、大切な家族へ持たせるようになりました。
そして日常生活では怪我除けのまじないにも使われました。

そして戦後になると弾除けの信仰から江戸時代のような様々なバリエーションでの信仰に変化しました。
現在では前にあげた神社のお札のみならず、自分で書いたサムハラの四文字をお守りとする人もいるようです。
「昭和五五年ごろに御徒町駅(おかちまちえき)のホームの階段で転げ落ちたとき、これを身につけていたお陰で、眼鏡を壊しただけで大した怪我もしないですんだ。それから、店に来る人に自身が記したサムハラという文字を配るようになり、近所で知られるようになった」という事例もあります。

◆サムハラ文字の意味

サムハラ文字の意味、読み方については多くの研究者が仮説を提示していますが、すぐに結論が出せる問題ではないようです。
いつかこの文字の本当の意味が解明される時がくると良いですね。

◆参考文献

国立歴史民俗博物館学術情報リポジトリ
サムハラ信仰についての研究
https://rekihaku.repo.nii.ac.jp/record/2048/files/kenkyuhokoku_174_07.pdf

いかがでしたか?
霊験がありそうなサムハラ信仰、少し気になりますよね。
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(漢字四文字がサムハラです)

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