なぜ私たちは本を積むのか
※これは長めのフリートである。約1700字。
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今年は紙の書籍を30冊は手放そう、と上半期に目標を立てていたものの11/21時点で20冊しか手放せておらず、このままのペースでは目標達成は厳しいことが判明した。部屋にあるラックには読みかけの本が10冊程度あり、収納スペースから溢れた本たちがピアノ用の椅子の上で無言の圧をかけてくるが、見て見ぬふりをしながらろくに読書をせずTwitterに励む毎日を送っている。
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ところで積読を関数fとすればその一階微分は以下のような簡単な式に落とし込める。
f’=(本の入手量)−(手持ちの本の読破量)
つまり積読を減少関数へ転じさせたい場合は購入量を抑えるか読書量を増やすかの少なくともいずれかをすれば良いのである。しかしながら口で言うのは簡単でも実行するのは難しい。その理由について述べる。
まず、本を買うのが好きだからである。テーマ選定→リサーチ→購入→読書→感想整理、という読書の一連のプロセスの中で、テーマ選定からリサーチを経て購入するというフェーズを最も楽しんでいる。言い過ぎかもしれないが、読むことよりも買うことによって胸が高鳴る。書店という空間が好きなのも自ら購入欲を駆り立てられに行く要因のひとつだ。(蛇足だが丸善丸の内本店が最近のお気に入りである。)
さらに、「本を買い渋ってはいけない」という教育方針の家で育ったためか図書館を積極的に利用することがないのもある。1回読んですぐに手放すのがデフォルトな人間だが、それでも本を買うのは良いことだと思っている。これはもはや信念のようなもので、今後生きていく上で揺らぐことはなさそうだ。
読書量自体はそこまで少なくないと自負している。社会人で年間数十冊を読破するのは読書好きな部類に入るだろう。だからこそ私にとっては本の買いすぎが積読の真因だと言える。そして買いすぎを抑えるのがそのまま楽しみを減らすことや信念を曲げることを意味するというのが事態を複雑にしている。
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それでも収納事情を鑑みて積読を減らしたい。もう一歩踏み込もう。
本を購入する際は、知りたいテーマを選定し何冊かを購入している。見直すべきはここなのかもしれない。電子書籍も普及しているこの時代、必ずしも一度に複数の書籍を購入する必要は無いのだから。あるテーマについて知りたいことがあっても1冊ずつ購入するに止めれば、2冊目3冊目と読み進める前に興味の対象が他のものへ移ったことを理由に本を積むという事象は防止できる。
いまは「植物は日光をできるだけ浴びるべく葉を生やしていくが、その合理的選択はどのようにして決定されるのか。植物は意思を持っていると言えるか」と友人との会話の間で生まれた問題提起をきっかけに、進化生物学に興味を持っている。意思の有無は神経細胞やそれに準ずる細胞を有しているか否か等で見るのか?微生物からの進化の過程は未だに解明されていないと聞くがどのような仮説があるのか?ヒトでいう脊髄反射は脳を介さないものだが植物もそのような反射的行動をしているのか?等、疑問を挙げればキリがない。今までの私であれば、大衆向けの本と堅めの書物とやや視点を変えた本とで最低3冊はセットで購入していただろう。しかしながら積読を減らしたい今、高校で物理化学を選択していた人間にもわかりやすいような入門書1冊を購入するのみにすることをここに誓う。
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さて、最後になるが、積読を否定するつもりは毛頭ない。現在読んでいるのは4年前に購入したもので、子の認知が親の虐待によって歪むということ、そしてその傷つき歪んだ認知を整理して矯正していこう、というのがメインテーマだ。4年前は興味こそあったがなかなか理解が追いつかず、数十ページ読んだ状態で積み上げていた。しかしながらいまはスルスルと内容が入ってくる。こうして本を寝かせておいたことで自らの精神の発達を実感できるのは、積読ならではの利点なのだ。いまでこそワンルーム暮らしだがもし引っ越して実家くらい本棚を置けるようになれば、私は喜んで本を積み自分だけの書店をつくりあげることだろう。
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以上、減らない積読に絶望しつつ懲りずに本を探そうとする矛盾行動をとっている人間の葛藤でした。
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