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夏目漱石の夏休み  6

6 漱石の妻・鏡子との夏 (2)


 明治30年(1897)6月29日、漱石の父直克が81歳で亡くなりました。ちょうど学年末試験が終わった日で、漱石は成績処理などをすませ、合羽町の家を引き払って、妻・鏡子と2人で上京しました。鏡子にとっては、結婚後初めての里帰りです。
 漱石は父親に対して生涯親しみの情を抱けなかったと、鏡子が『漱石の思い出』で語っています。幼いときに養子に出され、養父母の離婚後は、夏目家に引き取られた漱石が、実の父親にどのような思いを抱いていたかは、よく分かりません。唯一の自伝的小説とされる『道草』には、漱石の境遇とよく似た健三という主人公が描かれますが、「彼は自分の父に対して左程情愛の籠もった優しい記憶を持っていなかった」と書かれています。
 しかし、父は自分の死後、養父が再び漱石に接近してくることを心配して、漱石の養子縁組を解消するにあたってさまざまなやりとりをした際の書類をすべて取っていたのでした。漱石もまた、毎月父親に10円送ることだけは欠かしていません。幼い頃から養父母の愛情に偽りのものを感じ取っていた漱石にとって、養父母とは明らかに違う思いがあったようです。
 2人は、中根重一(鏡子の父)の貴族院書記官長官舎に落ち着きました。夏になると中根家の人々は鎌倉に避暑に出かけるので留守番をしながら、官舎で夏を過ごすつもりでいました。しかし、鏡子は、熊本から東京への長旅のために流産してしまいました。当時は熊本から東京まで、3、4日かかりました。30時間を超える汽車の旅は、妊娠中の鏡子には相当な負担だったのです。
 鏡子が療養のため、中根家の人々が滞在している鎌倉の別荘に行くと、漱石は鎌倉と東京を行ったり来たりしてその夏を過ごしました。この間五高に採用する教師の面談もしています。また、病気の子規をたびたび訪ね、句会にも参加しました。樋口一葉の全集を買って読んだり、「読売新聞」に連載されていた尾崎紅葉の「金色夜叉」を読んだりしました。
 9月に入り、学校が始まる前には熊本に帰らなければなりませんが、鏡子は医師から長旅を禁じられました。漱石は鏡子をおいて1人熊本に帰ることになりました。「妻を遺して独り肥後に下る」という前書きのついた俳句があります。
  月に行く漱石妻を忘れたり
 漱石が熊本に着いたのは9月10日。さっそく大江村(現熊本市中央区新屋敷)の家を借りて移りました。鏡子が健康を回復して熊本に帰ってきたのは、10月下旬のことでした。           (つづく)
 

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