見出し画像

コピーライターになれなかったけど、糸井重里さんに褒められた話

コピーライターになりたかった。だけどなれなかった。

子どもの頃から、新聞広告や雑誌の広告で、ズバッと1行書かれた、強いメッセージをかっこいいと思っていた。いちばん好きだったのは、キユーピーの「野菜を見ると、想像するもの。」というコピーだ。

メッセージを押し付けるのではなく、読み手が自発的にマヨネーズやドレッシングを想像してしまう設計になっていて、スマートで、いい意味でズルくて、かわいらしくて、最高だなあ、といつ見ても感動する作品だ。

そうして、コピーに魅せられた10代の僕は、広告業界を志望して上京し東京の大学へ通い、コピーライター塾で半年ほど学び、大学4年の就職活動では、広告代理店を上から順番に受けていくことになった。

結論からいえば、ことごとく落ちた。しかも、合同就活イベントに足を運ばず、ほかの業界に見向きもしなかった。よって、就活戦線は見るも無惨な有り様だった。想いだけは強いわりに、準備をおろそかにしていたし、計画性のない、視野の狭い学生だったと思う。

タイムマシンがあれば、2005年に戻って、当時の自分を叱りつけてやりたいと思うが、おそらく彼は自らに似たヤバいおじさんの出現にきょとんとするばかりで、考えを改めることはないだろう。

その後、秋採用で、地元の広告代理店になんとか拾ってもらえた。周りの友人は、GW明けの5月にはだいたい進路を決めていた中で、自分の内定が出たのは、暮れも差し迫った12月の下旬のことだった。



社会人1年目の思い出といえば、入社初日に、全社員の集まるミーティングで居眠りをして、社長に怒られたことだ。

いかにも、ふてぶてしいバカ新人だが、実際は、社会人生活の始まりを心配し過ぎて、睡眠時間がガタガタになったが故の失態だった。今もあまり変わってはいないが、メンタルバランスにムラのある20代だった。

はじめの数カ月はいろんな部署の仕事をやりながら学ぶ、OJTの期間を経て「プランナー職」での配属となった。希望はクリエイティブ職だったが、叶うことはなかった。企画書をつくったり、スケジュールや予算の管理をする仕事をすることになった。

ときどき、テレビやラジオのコマーシャルづくりの案出しの機会に呼んでもらえたり、公募企画の添削を業務外の時間を割いて先輩にしていただけたりすることがあったが、記憶にあるかぎり、先輩や上司から褒められることは一度もなかった。ざっと100打数0安打、という様相だった。

それでも、プランナーの仕事を続けていたら、コピーライターになれるチャンスがあるのかも、と思って、コピーの練習をひそかにしていた。



しかしながら、入社2年目のタイミングで、コピーの賞をとっている実績豊富な方が中途入社してくることに。

彼はじぶんと同世代で、すごく優しい人だったのを覚えている。彼と同じ企画で、案だしをする機会などでは、まざまざと、力の差を見せつけられた。先輩達との比較では経験の差を言い訳にできたが、同い年の彼とのあいだではそうはいかなかった。

おそらくこの頃、精神的に参ってしまっていたのか、学生時代に買いためたコピーライティングの本を全て売り払ってしまったことを覚えている。バカバカしい行動のようだが、ひたすら絶望していて、そうする選択肢しか思いつかなかった。



そうして、23歳になったばかりの僕は、心がボキボキに折れていたし、そもそも要領が悪く、うまく仕事をすることができなくて、しだいに調子を崩し、会社を休むことになり、退職することになった。



そこから10年が経ち、いろいろあり、僕は、インターネットメディアで編集の仕事を担当していた。広告クリエイターにはなれなかったけど、残業時制限まで、めいっぱい働く30代を過ごしていた。

ある日、インターネットメディア「ほぼ日刊イトイ新聞」が、コンテンツを学べる塾を開催するというニュースを知った。

長く、愛読しているメディアだったので、興奮して、気合を入れてエントリーシートを書き上げ、幸いなことに選考をパスし、通えることとなった。大好きなメディアがどういうコンテンツづくりをしているか、学べることが嬉しかった。


塾では、たくさんの学びがあった。手を動かしてコンテンツをつくる課題があり、シビアな添削があった。このときの、ストレートで手厚いフィードバックは、今でも自分の血肉になっていると感じられるし、ときどき読み返すことがある。

中でも、とくに力を入れた課題があった。当時、仕事が忙しく、なかなか遊ぶ時間がとれなかった3歳の息子に、自由に一日、すきなようにさせてみて、その様子を読み物としてまとめた

この課題は、結果として、多くの人に読んでいただくことができた。なんと恐ろしいことに人気サイトである「ほぼ日」のページに公開されてしまっていたので、自由に読むことができたのだった。



当時、ウェブメディアの仕事に携わっていたけど、自分の名前がクレジットされたものは一つもなかったので、ものをつくって、自分の名前が書かれ、世に出たことがとてもうれしかった。

コピーライターにはなれなかったけど、当時、仕事を決して楽しめているとはいえない中で、ウェブコンテンツを書いたり、編集する仕事って面白いのかも、と思えるきっかけになった出来事だった。


ところで、就活のタイミングで、コピーライターという選択肢になぜそんなに固執していたのかといえば、糸井重里さんのことが好きだったからだ。糸井さんは、コピーライターの代名詞のような方で、大学時代に広告学校へ通って勉強していたときに、糸井さんがつくってきた広告を知った。

さかのぼると、自分が小学生の頃に糸井さんがつくったゲームにハマり、高校生のときには、毎日すみずみまで「ほぼ日刊イトイ新聞」を読んでいて、「ほぼ日」のマネをしてホームページづくりをしていた。

HTMLのソースをコピーして、クラスメイトに原稿を書いてもらって、自分なりの"新聞"をつくって公開して遊んでいた。学業も部活動も恋愛もぱっとしない高校生活で、寝る間を惜しんでのめりこんでいた趣味だった。

僕の文章は、ひらがなが多くてやわらかいと言われることがあるが、これは糸井さんの影響だと思う。もちろん、完全にトレースできているなどとは思わないけど、17歳の頃、どんなコンテンツよりも熱中してハマって、書いて読んで、を繰り返していたのは糸井さんの文章だった。


そんな僕が、34歳の夏、「ほぼ日」の塾に通えたことは、自分の人生が変わるようなターニングポイントだった。

中でもとくに、忘れられない瞬間がある。



何ヶ月かの塾のプログラムが無事に終わり、その打ち上げとして、青山一丁目の会場に受講生とスタッフが集っていた。立食形式のパーティーで、お酒を飲んだり食事を食べていた。ずいぶん盛り上がった夜だったと思う。

この場には、糸井さんもいらしていて、話をするたびに人だかりができていた。僕はといえば、子どもの頃からの憧れの人に、気後れしてしまって、遠くから眺めているだけだった。相変わらずのメンタルの細さだ。

中締めも済んだタイミングで、自分は千葉に住んでいるので、人より終電が早かったこともあり、みんなに挨拶をして、すこし早めに会場を後にした。季節は夏頃で、過ごしやすい気候だった。外苑前の駅まで、すこし歩くことにした。

扉を開けて外に出ると、会場からもう1名、僕のすぐあとに出てきた人影があった。振り返って声を掛けようとしたら、びっくりした。


糸井重里さんだった。

周りに他の人はいなかった。わ、糸井さんだ!!!!!と思い、おそるおそる声をかけ、なんとなく、二人で、駅まで歩くことになった。心臓がハイペースでどきどきしていた。

ものの数分の出来事だったが、何を話したか、上の空でほとんど覚えていない。自分は塾に通っていた生徒で、いかにいい場だったか、塾のコンテンツが、勉強になったかを伝えていたように思う。

声が裏返らないように、頑張りながら「息子がいるんですがトトロが大好きで」とか話したような気がする。糸井さんはとなりのトトロに出てくるメイとサツキのお父さんの声優をしているからだ。

よりによってこの数分の僥倖に、他に伝えたほうがいいことあったのでは、と今なら思うが、仕方ない。このうえなく舞い上がってしまっていたのだった。


ああ、喋りすぎてしまっているな、と思いながら、隣を歩いている糸井さんに、「塾の課題で、3歳の息子が好きなように一日を過ごす記事を書いたんです」と伝えたら、

「ああ、読んだよ」「あれは、アイデアがよかったね」

と言ってくれた。え、読んでくれたんすか!!!まじすか!!!とか反応した気がするけど、恐縮して興奮して、どう返事をしたのか、あまり覚えていない。

すると、糸井さんは、少し前のほうをあるく顔見知りのスタッフさんを見つけ「じゃあね〜」と去っていった。



そのあと、僕はといえば、へなへなと力が抜けてしまって、ドトールに入ってなんとなくコーヒーを注文して、飲んでいた。

そして、つい数分前に投げかけられた、

あれは、アイデアがよかったね

という言葉を噛み締めていた。あの糸井さんが、自分なんかが書いたものを目にしただけでも信じられないのに、褒めてくださったのだ。たしかにうんうん唸って、考えた企画だった。アメリカンコーヒーを飲みながら、ずっとドキドキしていたのを覚えている。



きっと糸井さん御本人は覚えていらっしゃらないであろう、ほんの数分の出来事ではあるのだが、僕にとってはそのあと何度も思い出して、励みにさせていただいているシーンなのだった。

その光景は、MOTHER2にのめりこんでいた12歳の自分にも、ほぼ日にハマっていた17歳の自分にも、広告業界に飛び込んでコピーライターの夢を諦めた23歳の自分にも、想像できなかった未来だった。

その後、この糸井さんの言葉に支えられて、また、ほぼ日の塾で学んだ経験を元に、ぼくはインターネットのコンテンツに関わる仕事をしていくぞ、と決めることができ、1年後、当時大好きだったcakesというメディアを扱う、ピースオブケイクという会社へ転職することになるのだった。

いいなと思ったら応援しよう!

みずのけいすけ|パーソナル編集者®
読んでいただきありがとうございます。いただいたサポートはnoteコンテンツの購入にあてさせていただきます。