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僕が他人の孤独に寄り添う理由
41年生きてきて、仕事以外で、人の相談にのる機会が数多くありました。誰かの仕事の悩みを明け方までとことん聞いたり、ボランティアで学生の就活相談を100人も200人も、体力の限り受け付けたりとか。
本職はディレクターですから、カウンセリングやコーチングは本業ではなかったのですが、趣味でやってる、というには、人の目からはその姿勢が過剰に映ることが多かったようで、
何があなたをそうまでして駆り立てているのか?
と聞かれることが少なくありませんでした。
こういう場合「そういう性格なんですよね〜」と答えたり、あるいは僕自身のストレングスファインダーで上位に位置する資質の「包含」や「成長促進」を理由に納得いただいたりしていました。
また、昔から、自分が目立つよりは、誰かの役に立つことがうれしいほうでした。ですからこのnoteにあるような、サクちゃんの「叶え組」という考え方は、自己理解にすごく役立ちました。
もともと、戦略をとうとうと語り、人を率いるタイプではないんです。どちらかというと、すでにある明確なビジョンに惚れ込み、その実現を手助けすることに、生きがいを感じます。
そして、今となっては、誰かのカウンセリングをすることで、生計を立てることができています。こんなに嬉しいことはないと思っています。
そんな僕が、誰かのために身を捧げることを厭わないように見える理由を、自分なりにまとめて、書いてみようと思います。
13年前、親友を亡くしました。2006年のことです。
えっと、このnoteでは、生き死にに関する話題を扱いますので、読むのが憚られるかもしれない、という方はそっとこのページを閉じてくださいね。元気のある時にお越しいただけたら。
続けますね。
その頃、僕は24歳で、社会人1年目を、たんこぶを沢山つくりながら、自分の性格のままならなさに苦しみながら、どうにかこうにか足掻きながら、過ごしていました。
知らせが届いたのは、12月の下旬のこと。曇っていて、かなり寒い日でした。
友人は、高校のひとつ後輩の男の子で、なんやかんやとよく遊んでいました。彼は地元に残り、僕は上京して東京に進学していたので、そんなに頻繁にとは行かないまでも、行き来して会っていました。
なにぶん音楽の趣味がぴったり合うので、好きなアーティストのライブへ連れ立って行くことが多かったです。民生と、ヒロトと、サザンの話をよくしていました。
ある日、彼の運転する車でドライブしているときに、サザンの「別離(わかれ)」という曲をかけたとき、彼が「めちゃくちゃ悲しい曲じゃないですか」と語っていたのを覚えています。
曲調は明るいものの、歌詞を読むと、せつないというよりは悲しい曲であることが分かるのですが、そんなニュアンスを、ぱっといち早くつかむことのできる、繊細さをもった人でした。この曲を聴く度に思い出す光景です。
2006年になり、お互い、ぶじに大学を卒業しました。僕のほうが、大学へ入る前に浪人生活を送っているので、1歳下の彼とは、同じタイミングで社会人になり、彼は、福祉関係の仕事につくことになりました。
しかし、会社の雰囲気にどうにも馴染めず、夏が終わるころには、精神的に参ってしまい、入社後、半年を待たずに、退職しました。
僕は社会人になるタイミングで地元へUターンしていたので、その後、何かしらの理由をつけて会って、遊んだり話したりしていたのですが、ある日、悲しい知らせが届くことになりました。不意打ちでした。
その後、彼の弟が、遺品だった携帯の履歴をもとに、どうやら親友であっただろうことを察し、僕にわざわざ連絡をとって下さって、彼がこの世にもう居ないことを伝えてくれました。
弟さんとは、それまでに面識はありませんでしたが、丁寧に状況を伝えて下さいました。亡くなってから数日が経っていました。
なにせ急なことだったので、お通夜にも、お葬式にも出ることは叶いませんでしたが、一度だけ自宅に招いていただき、形見の品をいくつか分けていただきました。
そして、僕の手元には、彼と二人で行くはずだった、年末のカウントダウンライブのチケットが2枚、残されていました。
あれからもう、16年が経ちました。
友人がいなくなってから、僕は僕で、すっかり無傷というわけにはいかず、うまく気持ちの整理をつけられないままでいました。
そしてある日、急に身体が動かなくなり、眠れなくなり、仕事を休職し、そのまま復帰できず、退職しました。会社に迷惑をかけてしまったし、精神的にはかなり追い込まれてしまっていたと思います。
うつのような状態でした。彼が亡くなってから、僕がそれを発症するまで、1年弱が経っていました。そのタイムラグが、今となっては生々しいなと思います。
その後の僕は、通院し、回復し、転職し、ばりばりと働くアラサー時期を経て、今に至ります。
彼とは違い、僕は生きる選択をすることができました。
そんな親友について、特に印象に残っているのが、会社に馴染めず、社会に向かないと儚んでいたことが、彼が亡くなる間際のウェブの日記から、うかがい知れたことでした。
Twitterでも、mixiですらなく、diary.ne.jpというドメインで運用されていた、「さるさる日記」というサービスでした。すでにサービスは終了しており、もうその文章を読むことは叶いません。当時、ログをとっておく気にもなりませんでした。
ごく近しい友達の、悩む心を引き受けきれなかったこと。社会に適応することができず、自身を責め続けていたであろう彼の姿が、ずっと僕の中にありました。
ですから、たとえば会社の後輩から、つらくて会社を辞めたいという相談をされたら、なるべく話を聴きたいと思ったし、就活のプレッシャーに押しつぶされそうな学生には、他人事ではいられませんでした。
彼のために、というのを意識したというよりは、身体が勝手にそちらへ向くような感じでした。誰かに寄り添うためのエンジンを彼の分まで預かって、人の2倍の出力で走ってるような感じだよな、と思ったことがあります。
結果として、この十数年、公私の区別なく、そうした「相談にのる」という行為の場数を踏むことになりました。僕は僕で、周りの人をはじめとした環境に恵まれ、幸いにも、生活を途切れずに重ねることができています。
僕のこれまでにしてきたメンタルケアやキャリアカウンセリングは、ひとりひとりの孤独な戦いに寄り添う類の行為だったと考えています。
そして、取ってつけたような言い方になることを許していただきたいのですが、何かしら創作することも同様に、孤独なものだと考えています。
多くの人の目に触れることを目指したわけでもない、ただ自分についての日記を書くことですら、そうです。この1ヶ月、noteを書き続けて思いましたが、なかなかに孤独なプロセスでした。孤独を経たからこそ、読まれる嬉しさがあり、つながる喜びを感じられました。
いま、僕は個人や企業の編集者として、創作に寄り添う仕事をしています。とても面白い仕事です。
書き手が個人であっても法人であっても同様で、その孤独をともに味わったり、前に進ませるためのアイデアを提供できたり、していけたらいいなあ、と考えています。
今日の本題に戻るとすると、時間がかかったけど、大きな喪失を昇華できたな、と感じつつあります。なんせもう17年が経とうとしていますし、こうして外に向けたテキストにもできるくらいになりました。
そんなに長くはない文章でしたが、17年間、推敲し続けてきて、今日、ようやく日の目をみました。こんなに長い宿題って、なかなかないですよね。ほっとしています。
最後は、すこしの勢いが必要だったようで、このテキストを出すために、今日までせっせと毎日、noteを書いていたのかもしれないとさえ思います。何が奏功するかわからないものですね。読んでくださってありがとうございます。
いま、彼の死をのみこんで、じぶんの血肉に変えることができていると感じています。時間はかかったけど、彼のぶんまでの、ふたりぶんのホスピタリティを携えてこれからも進んでいきたいです。
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