かろうじてなっち。
今まで何人に芸能人の○○に似てるね!って言われた事があるだろうか。
顔という存在の理不尽さに気づいたのは幼稚園の頃、通ってたヤマハ英会話教室の同い年の女の子のことを母が「加護ちゃんに似ている。」と言い出したことからはじまる。
当時、女児の間でミニモニはかわいいのメッカだった。私もミニモニとあややの事しか考えてなかったし、かわいいと言えばあややかミニモニである。
その加護ちゃんに友達は似ているだと...
「じゃあ私は?」
もちろん私は母に聞いた。
母はここで適当に「辻ちゃん」とか言ってしまえば事なきを得たのにあろうことか、悩んだ末に「なっちかな...?」と言ったのだ。
全くもって嘘の下手な親である。
私はそうして〔かろうじてなっち〕の顔になったのだ。
そうなってくると私は私の知ってるかわいいと違うんだってことに気が付いてくる
幼稚園の親友の子は色が白くてふわふわした雰囲気なのに、私はなんか色が黒くてガリガリだしあややはあんなにもピンクが似合っているのに、おんなじ感じにはならないのだった。
小学生の時、みんなを順番に仲間外れにするタイプの子はウサギのような見た目のピンクがよく似合う女の子だった。
ギャルの中学生に可愛がられていたためか、ませていてクラスの中心にいつも君臨しており、他の子と形となんか違うんだなと思った。
ていうかスタンスも違うなと思った。
中学に上がるタイミングで女子校になったので、今までの経験に基づきかわいい子になるためには「かわいい」というスタンスでいれば良いのでは...?という思考になり、当時の女子達の間で必ずやりとりするプロフィール帳の【かわいいと思う人は?】という欄に「わたし」と記載してみるようにした。
結果、ちょっとナルシストな人だと思われたと同時に『この人にはかわいいと言って良いんだ』という雰囲気づくりにある程度成功し、自我のあまり形成されていない同級生を騙くらかすことに成功した。
まったくもってかわいくない子供である。
今でこそ自己肯定感の高いことは良いとされているが、当時は謙虚さを重んじている社会だったしなにより単純にアホだと思われてイジメにも発展しかねない私の手口がまかり通ったのは、性格の良さよりクレイジーさが重視される女子校ならではだったからかもしれない...間一髪。
しかし、先輩女子にはこの手口は使えないし上下関係の激しい女子校ではそんななめた態度はできない。かわいい押し売り作戦は対象年齢14才までで一旦終焉を迎えた。
女でも女じゃなくてもルッキズムに悩まされたり、自分の持っている形が何にも当てはまっていないことに落胆したりするが
「あなたはあなたのままで美しい」みたいな言葉はあまりにも残酷な呪いにも聞こえる時もある。
やっかましいわ。実際みんな美人すきですやん。
みんな美しい人は好きなのだ。
女も男も関係なく多くの人が美しいと感じる人は群衆の中でどうしても目立っているし、みんなその顔を鑑賞したいと思ってしまう。
それは紛れもなく事実で、私もアイドルとかめっちゃすき。頑張って歌って踊ってる美人が拝められてアイドルは最高でしかない。
ありのままで美しいという言葉は間違いではなく正論だし人類という大きな括りで見れば、いろんな人種や個体差があることが面白い。
猫は全員ミケネコの世界より、白いのとか黒いのとか不機嫌そうなのとかデブの子とか色々いるから美しくて愛おしい。
違う生き物に例えるとこんなに分かりやすいのに、自分の品種になると途端に憂鬱なトピックになるのは、たくさんの美しい人が得をしてるように見えるからかもしれない。
顔というものは、財産を産む材料とも財産を食い潰す可能性も秘めた造形品にも思う。
そして作家はいくつも作品という顔を作る仕事と感じる時がある。
作家が作る作品は美しいとか恐ろしいとか形容し難いものまで様々であるが、ただ美しいだけでは作品ではなく工芸品っぽく見えてしまうこともある。
作品は常に美しいとか醜いとかではない歪みが鑑賞者の感情の引っ掛かりることが大事な要素の一つでもあると思う。
私は人間を描いてるけど顔は描きたくないので、現状顔がついてる絵は出来るだけ描かないって決めている。
※「かろうじてなっち」に関して
当時は不服だったけどなっちは最高なので、リスペクトを込めて大学生の時になっちのコスプレをしたくらい今では好きです。
DEF.DIVAとかほんと最高。