2011年3月22日 孫正義と福島に行った時の事
これが僕が今までの人生で撮影した中で一番多くの人に見られた写真です。2011年3月22日ソフトバンク孫正義社長と福島県の避難所に行った時の一コマ
この時のことは、いつかしっかり残しておきたいと思っていたのですが、毎年延び延びになってしまっていたので、記憶が薄れる前にできるだけ当時のfactや自分が感じたことを残したくて頑張って記事にしました
(また、この記事は2014年にFacebookで書いたフィードを大幅に加筆修正したものでもあります。)
①なんで福島に行ったのか?
このプロジェクトは、当時毎日原発事故の状況と避難エリアの拡大のニュースが流されるなかで孫正義社長は「段階的に避難エリアを拡大するのは悪手だ、非難する時は一斉に行うべし、福島県民は何人いるんだ?全員西日本に撤退させ、その後落ち着いたら少しずつ戻ればいい。順次拡げれば何か隠しているとして政府不信やパニックを誘発する。」という言葉から始まった。
その日から、自ら同じ汐留に本社があるANAに電話したり非難受入れのために全国の自治体に電話したりして西日本への避難計画への賛同を呼び掛けた。
これに最初に賛同いただいたのが佐賀県古河知事(当時)と武雄市樋渡市長(当時)で、地元の学校の体育館などを避難場所に開放してくださることになり、その移動費及び半年分の滞在費を孫社長が全て自己負担するという内容が固まった。
民間企業が避難を呼びかけるのは少し変なので、古川知事からの案で佐賀県古川知事から親書という形で福島県佐藤知事に渡す。その際、樋渡市長と滞在費のスポンサーでもあり発起人として孫社長が一緒に渡しに行くという形で落ち着いた。
※荒井さんの当時コメント、深夜までみんなで作業してました
②行った時のメンバー
・孫正義 ソフトバンク㈱社長
・嶋聡 ソフトバンク㈱社長室長
・荒井優 ソフトバンク㈱社長室
・加藤幹也 ソフトバンク㈱社長室
※会社名や肩書は全て当時のもの
※上記に加えて、樋渡市長と武雄市の方々が数名
そもそも、当時の僕はソフトバンクからUstreamAsiaに出向していて、そこで震災対応に当たっていたんですよね。その際に、社長室と連絡取り合ってソフトバンク内部の状況もうっすら把握していたし、自分も経産省への出向から戻ってきたばかりだったので公務員魂がメラメラしていてこの国難に何かできることがないか考えていた時期だった。
そんな時に、3月17-18日あたりに嶋さんから電話がかかってきて「加藤君、孫社長が福島に行きたいと言っているので社長室メンバーで随行することになった。災害時は何かあったときは2台で行くんだ、確か君はA級ライセンス持っていただろう。2台目を運転してくれないか?」って電話がかかってきたので二つ返事で「了解です!!」って返事をしたのを思い出した。
(参考:3月11日にUstreamで起きていたこと)
③車が一切いない東北道を行く
3月22日9時前に汐留本社を出発。
オフィス出るときに、出勤してきた同期の女子に「おはよー」とか声かけられたんだけど、なんて返事したかも覚えてない。
でも悲壮感がヤバかったらしいw
ガイガーカウンターを持たされて、30分毎に電話するから線量を報告すること。また、0.3μシーベルト/時を超えたらマスクをしろと本社に残る後方支援チームから指示をもらってから、社長車と室長車2台で出発したんだよね。
僕は2号車を運転しているのでtweetできなかったけど、荒井さんは孫社長車に同乗していたので道中いろいろ発信してた。
僕の車では2時間くらいは線量が変わらず余裕だったんだけど、那須塩原で0.3を超えて一緒の車の嶋さんに「0.3超えたのでマスクしましょう。」って伝えてお互い少しずつ無言に。。。
その後、30分も経たないうちに郡山付近で4μシーベルトを超えて、二人だけの車内は一気に緊張感が走る。。
そもそも当時の東北道は通行止めで申請した緊急車両以外は入れない状態だから、前を見てもバックミラー見ても全く車がいない。数分に1度くらい自衛隊の車かトラックが通り過ぎるくらい。
みなさんは、前も後ろも車に出会わない真昼間の高速道路ってイメージできますか?
いつも旅行で通る東北道がこんなにも不気味になるんだ。。。って感じたことを思い出しました。
さらに、その後霊柩車が20台以上連なって北上しているのを追い越しました。
おもわず嶋さんに「これリアルっすね。」と言い、
嶋さんも「そ、そうだな。。」みたいな会話をしたかな。
線量も高くなっているのでエアコンも切っていたので車内がだんだん曇ってくる、、、
当時は放射能のことまったくわかってないけど4μシーベルト超えてたらエアコンかけれないでしょ。
でも曇ると運転できないので、おそるおそる内気循環モードで曇りを取っては、もう一度エアコン切るということを何回もやっていたかな。
そんなこんなで、
福島ICから県庁付近に到着したときには6.4μシーベルトを指してました。
でも、市内は人や車がポツポツいたので、無人の高速走るよりか市内に入ってなんか安心したのを覚えてます。
但し、異常に高い数値であることは確かですから。
当時は誰もマスクなんかしてないですよ。
県庁災害本部につめてる東京の記者さん達含めて。
そんな状態でした。。。
④福島県庁で直談判
写真を見るとわかるのですが、孫社長も嶋さんもスキーウェアです。
これは前日に秘書さんが新橋のドンキホーテで一式買ってきてくれて、
みんなでそれに着替えていったから。
(もちろん最後帰ってきたときには、それを捨ててくるということですが。)
今見るとおかしいね。
会社の人に靴下とパンツまで買ってもらったのは、後にも先にもこの時だけでしょう(笑)
⑤田村市総合体育館(避難所)
田村市総合体育館に避難していた人たちは、福島第一原発がある双葉郡大熊町から避難してきた人たちでした。
孫社長は1人1人に避難しましょうって声かけてましたが、結局避難に同意した人たちはいませんでした。
後でわかったことですが、
この地域で住む方は直接や間接問わずなんらか福島第一原発で働いている方が多くこんな状態で避難してきてもなかなか東電を悪く言う人はいませんでした。
このとき、孫社長がこれは仕組みの問題だな、こんな目にあってもすぐに避難したり東電を悪く言い出せないのは切ない。
この構造を変えることができないかな?みたいな事を言っていたと思います。
多分、このことがきっかけで、その後自然エネルギーに一気に突き進むことになったと思います。
その他、
自衛隊が練馬の湯というお風呂を作っていて風呂上りにおばあちゃんが自衛隊員に手を合わせて「ありがとうございました」と言っていたり、
NTTドコモ福島支店が携帯充電器とGalaxyTABを置いて行ったりして、
やっぱドコモは立派だなと思ったり、
避難所には食パンなど物資が余ってて、報道で出てた他の足りない集落とのギャップが、やはりラストワンマイルの物流が大事なんだと思ったり、本当にそれぞれが心に残ることばかりです。
但し、この後も多くの災害がありそのたびに改善を繰り返してきて2024年現在は能登半島でもだいぶ効率的に物資を運べる体制になっていると思ってます。国家公務員も地方公務員も経験した自分からコメントすると本当にこういう時の公務員組織はたゆまぬ改善の取り組みが凄いと思ってます。
⑥田村市役所
⑦その後のソフトバンク
この後のソフトバンクは自然エネルギー事業立ち上げに一気呵成に邁進していくことになります。
自分自身も、本務であるUstreamに戻ることなく社長室に入り浸って1カ月以内に辞令がでて社長室に戻ったはず。
自然エネルギー事業立ち上げについては、別途またどこかで書くかもしれませんが今回は一旦ここまでにさせてください。
⑧ちょっとうれしかったこと
先週、僕が所属しているDRONE FUNDの支援先であるリベラウェア社のドローンが福島第一原発1号機の原子炉格納容器の内部撮影に成功しました!
ベンチャーキャピタルって、結局のところ金融仲介機能を果たしているだけなんだけど、その金融仲介の結果、こうやってあの震災の後始末に役に立っているというのは、なんかこうビジネスパーソン冥利に尽きるよね。
リベラのみなさん、本当に凄い!素晴らしいです!!
⑨最後に
ということで、3月11日は多くの人にとっても特別な日ですし、僕にとっても本当に特別な日です。
だいぶ、記憶も薄れてきたけど、いまだに2万6千人の人が避難されていて
特に、あの時着の身着のまま避難してきた方々は帰宅困難エリアだから
今日現在でも自宅に戻れてというか、もう戻る場所がないんですよね。
そういう方々のために、今日は心を寄せたいと思います。そして能登半島地震で被害にあった方にも改めて心を寄せたいと思います
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