「良いデザイン」について考え続けていたら全てがつながって途方に暮れたけど、越境して少し強くなれた、わたしの話。
この記事は、Designship2019 で行ったセッション『良いデザインってなんだろう? 変わるもの、変わらないもの』を元に構成したものです。
イントロダクション
こんにちは。筒井美希と申します。わたしは今、恵比寿にあるコンセントというデザイン会社で仕事をしています。
これまでの仕事としては、雑誌や書籍などの出版物や、大学案内・企業広報誌・カタログなどの広報物のデザイン。ウェブやアプリなどのデジタルメディアや、ロゴデザイン、パッケージ・ノベルティなどもつくりました。
4年以上前になりますが『なるほどデザイン』という書籍を出版してから、デザインに関するセミナーやワークショップのご相談をいただくことも増えました。
だんだん仕事の幅が広がってきて、ちょっと変わったところでいうと空港のサインをリサーチしたりとか、インナーブランディングなど組織課題に関する相談にのったりとか。必ずしもモノを作るわけではない仕事も、最近は珍しくなくなってきました。
でも、デザイナーになった当初は、とてもシンプルに考えていました。もともと本が好きだったので「ゆくゆくはブックデザイナーになれたらいいなー。出版関係の仕事ができる会社に入ったらそのうちなれるんじゃないかなー」くらいの軽い気持ちだったんです。
つくる力の壁
ただ、デザイナーになってさっそく、大きな壁にぶちあたりました。
わたしは武蔵野美術大学のデザイン情報学科というところを卒業しているのですが、それも補欠合格の繰り上げ繰り上げギリギリ入学といった感じでしたし、入学してからもあまり優秀な学生ではありませんでした。
新人時代も、自分で自分が作ったデザインを良いと思えなかった。ADからも情報整理とか進行管理とかは褒められるのだけど、肝心のつくったデザインはなかなかOKが出なかった。そういう状態でした。
なので新人時代は、本当にひたすらつくり続ける日々でした。つくる → 考える → 言語化するをぐるぐるぐるぐる繰り返した。
感覚だけでスッとバランスよく作れる人間ではなかった。苦手だったからこそ、言語化して書籍にまとめることができたのかな、と今は思っています。
デザインに必要な知識はたくさんあります。タイポグラフィ、配色、レイアウト。大学時代から勉強はしていましたが、うまくつかいこなせていなかったのはやっぱり、デザインの「目的」が分かっていなかったからだと思います。持っている知識を使うための判断基準を持てていない状態でした。
そこがうまくつながりはじめてからは「あれ、今回はちょっとうまくいったのでは?」「このデザイン良いんじゃない?」と思えるようになった。そうするとどんどんデザインが楽しくなっていったので、そういう気持ちが伝わればいいなと思いながらこの本はつくっていました。
業務範囲の壁
けれど、「つくる力」を身につけたころ、また別の壁にぶち当たりました。
たまに「ごめん、これちょっとデザインでなんとかしてくれない?」って言われることがあったんです。
写真があんまり良くないとか、内容が薄いとかの弱点があったとします。それでもデザインで濃い味付けをしてしまえば、一見素敵に見せてしまえる。でも、果たしてそれは良いデザインなのか? というのを疑問に感じはじめました。
仕事として請ける業務範囲が「デザイン・レイアウト」だったとしても、他にもいろんな要素が含まれています。企画、文章、写真、イラストなど。
こういうところも「良いデザイン」をするためには絶対必要だと感じたので、自分に依頼された範囲を越えるような提案をしたり、もっと業務範囲が広いプロジェクトを担当するようになりました。
大学案内で写真ディレクションのスキルを毎年磨き続けたり
イラストレーターさんと一緒につくる仕事も大切な経験でした。
1日撮影をするためには、事前にロケハンして撮影場所を決め、小道具手配してモノの管理をし、香盤表をつくって予算とスケジュールと時間を管理し、などなど、細々した準備が必要です。
「目に見えない仕事」が「目に見えるクオリティ」に直結することを目撃しました。「ロケハンでこの時間の光を知っていてよかった! だからこの素晴らしい写真が撮れた!」っていう感動をたくさん体験した。
一見地味に見えたり、必ずしもデザイナーとしてデザインを作る作業じゃない仕事も、「デザインのクオリティを上げるための仕事」として、積極的にやるようになりました。
メディアの壁
どんどんつくるモノのクオリティをあげるためのスキルを積み上げてきて、レベルアップしたところで・・・また別の壁にぶち当たるんですね。
定期的に制作する媒体では、ターゲットユーザーにヒアリングして改善のヒントを探すことがあります。聞いた話をもとに、手探りでカスタマージャーニーマップ風にまとめてみたりしました。
そうすると、まあ薄々気づいてはいたものの、誰かが何かを意思決定する流れのうち、ほんとうにわずかな部分にしか関われていない事実に直面します。紙媒体を改善するためのヒントがほしくてインタビューをしたのに、「パンフレットは見た記憶がないな」って言われちゃったりとかね。
でもそれって、当たり前だなーと。横断的にアートディレクションができるようになりたいと思うようになりました。
例えばウェブサイトとロゴとブランドカタログを統一した世界観でつくる。
例えばメインはアプリのサービスだけど、ウェブサイト、パンフレット、各種コンテンツ制作、ノベルティ、サイネージ広告、イベントブースのパネルなどなど、サービスの展開にあわせて必要になったクリエイティブを、どんな形であれ実現していく。
領域横断的にやるプロジェクトを通して、世界観をつくれるデザイナーを目指していました。
時間とスキルの壁
クオリティを高めるために、深く縦に伸ばす。
領域を横断するために、横に広く動く。
そこでまた、別の壁が立ち現れます。
プロジェクトがこんな感じで、パズル状態になりました。つくるものの種類も多ければ、定期媒体も単発案件もあり、10人を超えるデザイナーが必要な大きなプロジェクトもあれば、自分ともうひとりくらいでクイックに動きたいこともある。パズルの組み立て難易度が飛躍的に上がりました。
最適なプロジェクトチームを作れるかどうかが、デザインのクオリティに直結することを痛感しました。ADだからといって自分がすべてをリードするのではなく、誰かに責任ごと委ねて関わり方を限定させてもらうとか。自分には足りないスキルを持っている人に、いかに参加してもらうかとか。
うまくいったことも、うまくいかなかったこともあるのですが、「良いものをつくる=人がすべて」なんだなと、本当に実感する日々でした。
そんなとき、会社から「マネージャーをやらないか」という打診があったんです。会社の中に良いデザイナーがいっぱいいて、切磋琢磨できるような状態がいいなと思っていたところでもあったので、「これはちょっと思い切ってやってみるか…!?」と組織マネジメントをやることにしました。
環境づくりの壁
組織マネジメントの壁というのは、やはり、めちゃくちゃ高かったです。当時わたしが担当していたのは「エディトリアルデザイナー60人の部署」。この単位でマネージャーを立てるのは会社としても初めての試みだったので、まだお手本がなかった。毎日試行錯誤をしていました。
(参考:当時のインタビュー)
先ほども言ったように「クオリティのためには人がすべて」だと考えていました。だからもっとデザイナーには成長し続けてほしいし、そのための経験が出来る場所を作りたい。良いデザイナーの採用もしたい。自分たちの会社の実績をもっと磨いて、キラキラさせたいという気持ちがありました。
でもそれには、原資、つまりお金が必要でした。お金がない状態では、社員や環境に投資することができません。出版業界の状況は年々厳しさを増していて、例えば十数年で同じ仕事の価格が半分近くまで下がったり、雑誌が休刊してしまい、長期プロジェクトが突然消滅して売上激減! みたいな瞬間もありました。
もちろんエディトリアルデザイナーは編集力・具体化する力を持っているので、応用すればもっといろんな仕事ができるし、わたしはその可能性を信じていました。でも、前半で見てきたように、違う仕事をやるには多少のスキルシフトは必要です。ディレクターやプロデューサーがおらず、デザイナーだけの組織だったこともあり、どうしても技術が偏ってしまう。仕事の取り方も広げ方も、即座に変えていくのは難易度が高い状態でした。
しかもこのころの組織は、エディトリアルデザインの会社とウェブ・UI/UXの会社が合併してから、まだ3年ほど。さらにはサービスデザイン、エンタープライズIA、コンテンツストラテジーなど新しい事業もはじめていたので、もう情報の断絶が多発しまくってた。
組織の上下だけでなく、左右に対しても、どの方向にも「伝える仕組み」が必要でした。それに、役員・マネジメント目線での情報って、むき出しのまま現場に伝えるとまあ燃えたりしますよね(笑)。説明の重要性を痛感したのもこのころ。日々奔走していました。
こんな風に仕事していたら、最初はシンプルな頭の中でしたが、良いデザインのためにやるべきだなあと思うことが、無限にある状態になった。
これって実は危険思想でもあるんですよね。「自分がやるのはここまで!」って思えてる方がある意味安全。極端にすべてを自分ごと化しすぎると、どうなるか?
限界
こうなります。
・ADとして10本以上のプロジェクト
・60人の組織のマネジメント
・朝から晩まで仕事、たびたび徹夜
・土日は寝るか仕事するか著書づくり
・通勤は徒歩15分で終電は気にしない
・裁量がありすぎて自分で自分を止められない
当時は、こんな生活をしていました。そして限界を超えると、事件が起こり始めるわけです。
社内のチャットツールで雑談ができる場所があるんですが、そこで交わされていた「あの映画見ました」「あのシーンがいいよね」みたいな会話を目にするだけで辛くなってた。
なんでだったのか? やっぱり、自分自身が圧倒的にインプット不足な状態であるということへの危機感が、根底にあったんだと思います。
それだけじゃなくて、売上とか組織に関して悩んでストレスにさらされている状態で「シンプルに映画の感想を述べあえる」ということが、うらやましいやら、悔しいやらでした。わたしだって無邪気に「あのデザイン素敵だよねウフフ」って雑談したいのに! ずるい! って思ってました。
ヤベえやつですね。もう疲れちゃってるので、自分の認知が歪み始めていたわけです。ちょっと嫌なほうに。
事件は他にも起きました。まず、自分の強みが行方不明。マネージャーの立場として面談をしながら、ひとりひとりの強みや弱みを考えることに集中していたら、そういう自分はなんなんだ? が全くわからなくなりました。あれこれ手を出して成長していたつもりだったけど、結局すべて中途半端で、どれもやりきれていないのではと思えてならなかった。
もうひとつ、自分の価値観も行方不明になっていました。新しい仕事・技術・知識と出会ったときに、それが自分がマネジメントしている組織や、会社にとって価値があるかどうか? で判断するようになってしまった。自分の軸を持てなくなっていたんじゃないかと、今振り返ると感じます。
どうにかしなきゃ。でも自分で自分を止められない。じゃあもう最終手段だ!!!ということで・・・
引っ越しました(笑)。まず自分を物理的に会社から離してみることにしたんですね。
生活には、こんな変化が生まれました。
・15分だった通勤時間は75分に
・海の近くの一軒家に住み、オンオフはっきり
・通勤時間がインプットタイム
・東京から離れ、家が広くなり、作業場所ができた
・移動に時間がかかる分、無駄なく効率的な動き方をするように
・自宅作業して客先直行するとか、週1はおこもりデーをつくるとか
・じっくり考えたり、集中してものをつくる日を定期的に確保した
会社でも変化が起きました。60人の組織のマネージャーから、社員6人だけの新組織のサブマネージャーになりました。
このチームのスローガンは「越境」です。2019年の今となってはデザイナーにとって身近になった表現ですが、当時の私にとっては初めての言葉でした。「タッチポイント」「エージェンシー・クライアントの壁」「肩書き」「オフィス」を越える。外に出る。広がる、つながる。それが私たちのミッションになった。ワクワクしました。
(参考:越境するコミュニケーションデザイン)
よく考えてみると、これまでやってきたことも、距離感や難易度は違えど、ある意味「越境」的な要素があったのではないかと感じました。
なにか自分が目の前にしている物事を、より良くしたいと願ったとき、そのために足りない要素が自分の対岸にみえた。じゃあ、ちょっと一歩だけ踏み出してみよう。それがわたしにとっての越境だったし、その方向性はやっぱり間違ってないと思えたんです。
ただ、あまりにもいろんなことに追われすぎていて、やることを絞り込む決意や判断力が持てていなかった。だったら、もっと集中しよう。自分にとっての「越境成分」があるかどうかを、仕事をするときの判断基準にしようと決めたのです。
越境しながら考えた
不思議なもので、越境すればするほど、やっていること同士の意味や、つながりが分かる気がしてきました。
キャリアの一番最初はまず、自分で何かをデザインする力を磨きました。でもそれだけじゃ足りなかったから、編集・ライティング・撮影・イラストディレクション、できることを増やしていった。
でもこれは「誰かになにかの良い変化を起こすためのものづくり」です。そう考えてみると、
登場する接点は、もっとたくさんあった。だから横断的にデザインできるように幅を広げました。この活動は今もずっと続けていて、毎年1つは「つくったことがないものをつくる」を意識しています。
今は昔よりもアナログとデジタルの境界線は弱まっている気がしますが、それ以外にも、動画やモーションロゴなどの「時間・動き」のデザインや、施設サインやイベントなどの「空間」のデザインに関わったり。インテリアにも興味がありますし、問い合わせやサポートなど人間が関わる接点など、やってみたいものは、まだまだたくさんあります。
点を増やすだけではなく、体験全体をつくる
でも、自分が作れるものの種類だけをやみくもに増やすだけではなく、それが一気通貫している必要もあるでしょう。
例えば「カタログだけ」「ウェブサイトだけ」で世界観を統一しようとしたときには、しっかりしたルールやフォーマットを作ることができます。でも、媒体が違ってもクリエイティブの表現の方向性がバラバラではない状態にするためには、なにをすればいいのか。
正解はまだわかりませんが、試行錯誤を続けています。言葉を使ったり、イメージボードを使ったり、ワークショップをやったり。
一方で「どうつくるか?」だけじゃなくて、「なにをつくるか?」を考えることも重要なんですよね。
例えば、新しいサービスを立ち上げるときに考えたとしては、
・届けたいユーザーはこんな価値観を持っている人だ。
・じゃあどんな接点を作るのが良いだろうか。SNS広告? ウェブメディアの記事? イベント? 意外とアナログに店舗でのフライヤー?
・どういう予算計画を立ててそれを実行するか。
・成果を図るためのKPIを何にするか。
・どういうシステム構成にしたらそれをなし得るのか。
・それを実行するために必要な体制やオペレーションをどう用意するか。
などなど。デザイナーとしてなにかをデザインする「ものづくり」からは離れているようにも思えるのですが、既に決められている手段をどう表現するかだけでなく、そもそもの体験をゼロからつくる部分にも、関わって行きたいと思えるようになりました。
コミュニケーションとサービスの境界線
でもですね。どんなに良い届け方をデザインしたとしても、それだけではなし得ないことがあります。
ツールのデザインがもうどれだけめちゃくちゃ素敵でも、それだけで
・4年間通う大学をどこにするか
・結婚式を挙げる会場をどこにするか
・入社する会社をどこにするか
を決めるわけじゃないですよね。
商品とかサービス、そのものの価値がなくてはならない。
雑誌や書籍をつくる仕事であれば、そこに存在するモノが「商品」でした。「2000円で『なるほどデザイン』を買う」かどうか?という意思決定を支えるためにものづくりをすればよく、それだけで価値の大部分に関われた。
でも「作るものと商品価値がほぼイコールである」場合のほうが稀です。コミュニケーションのデザインをやればやるほど、サービスそのもののデザインとの境界線がくっきり浮かび上がってくるようになった。そしてそのラインを自分は越えるべきなのではないかと、思うようになりました。
まだまだ経験は浅いですけど、商品開発そのものに関わってみたり
サービスの体験を考えるという仕事を、増やしはじめています。
すべての土台となる組織のデザイン
よいサービス、商品をデザインするためには、それを生み出す人の技術や、オペレーションのデザインも必要でしょう。
それを支える企業そのものをどうデザインするかが、ますます重要になってきていると思う。インナーブランディングや、ビジョン・ミッションに関する相談がすごく増えてきているように感じています。
実際に自分がいる会社も、入社したときよりも大きくなり、組織が複雑になったので、それをつなげるデザインがやはり必要だと思いました。今はマネージャーではありませんが、プロジェクトを通じて関わり続けています。
コンセントデザインスクールという、社内向けのデザイン研修プログラムの運営をはじめ、気づけば3年目を迎えました。
もともとバックグラウンドが違う複数の会社が合併し、新しい事業もはじめている中で、スキルやナレッジが多様化している。でも一緒のプロジェクトをやる機会がない限り、知ることができない。それがすごくもったいないなと感じていました。
ナレッジシェアの取り組みがないわけではなかったのですが、やる側の準備はなかなか大変。運営メンバーがともに伴走しながら、定期的に届けるという仕組みをつくりました。
知識と知識、スキルとスキルをかけ合わせて可能性が広がっていく感じを表現したいと思い、ロゴ、関連ツール、Webサイト、ノベルティなどのデザインをしています。
(参考:デザイン会社がつくった研修制度「コンセントデザインスクール」)
そこから発展して「コンセントデザインアワード」というプロジェクトもやりました。2018年に会社のリブランディングが行われるタイミングでつくられた「10つの行動指針」があるのですが、その浸透を役員に相談されたのがきっかけです。
「行動指針」は会社が目指す理想像を示すものであって、現在の行動を規定するようなルールではありません。なので、あくまで社員が「行動指針」を知る、考えるようなきっかけまでは提供するけど、それをどう受け取るかは社員ひとりひとりに委ねるべきだと思った。
役員にもそのように伝え、社内イベントの企画を立てました。
「行動指針」をテーマにしたポスターを、クリエイターとコラボして作りました。その1つに「変化を楽しむ」というものがあるのですが、実際にプロのヘアメイクとスタイリストに依頼して、社員や役員に本気の変装をさせて「変化を楽し」んでもらっています。
どうしても「行動指針」というだけで重たい・硬い印象になるので、良い意味で「軽く扱っちゃう」方が現場との距離感が近くなると考えました。余談ですが、この青い髪&銀ラメの宇宙人はうちの代表取締役会長(一番偉い人)なんですけど、快く淡々と宇宙人になってくれました。
まだイベントの存在は伏せたままで、ある日突然ポスターが社内のあちこちに貼られているというゲリラ的な掲出方法にしました。「これ何? これ誰?」と会話が生まれる展開を狙っています。
10個ある行動指針は、アワードの投票用紙に仕立てました。先ほどの「変化を楽しむ」であれば、変化を楽しんでいるなと思う人の顔と行動を思い浮かべながらメッセージを書いてもらいます。最終的には1000枚を越えるカードが集まりました。
年度末の納会で掲出し、エピソードを紹介。その後、手書きのメッセージカードはすべて本人の手元に届けました。
行動指針はあくまで組織をポジティブな方向に変化させるための道具の一つでしかない。ポジティブなコミュニケーションの総量を増やすために行ったひとつの試みです。
全てがつながって、途方に暮れた
越境しながら仕事を続けるうちに、それぞれのつながりが見え、図が出来上がってきました。これってつまり、一般的な言葉でいうなら・・・
・ユーザーとの接点や、接点の連続で生まれる体験がUI/UX
・それによって生まれる顧客体験の総体がCX
・それを生み出すバックステージにもデザインが必要とされている
・その全体的な生態系を考えるのがサービスデザイン
・この状態を作るために経営レベルの判断や投資を行うのがデザイン経営
ということなのかな? と、わたし個人としては理解しています。
こうして単語を並べてみると、聞き覚えのある言葉で簡単に説明できてしまうのかもしれません。でも、わたしにとってこのひとつひとつにはものすごくたくさんの「具体」が詰まっている。たくさんのハードルがある。
つながった!理解できた!やった!というよりも、ちょっと途方に暮れる気持ちになりました。ぜんぶつながっちゃったけど、これどこからどうしたらいいんだよ?って。
つながりを知れば、断絶に気づく
つながりがみえたことで、そこに横たわる断絶もみえてしまうわけです。
発信者目線と、受け手目線の断絶。
発信する側が「伝えたい!」と思っていることは、量にしても内容にしても、ユーザーにそのまま届けても「伝わらない!」場合がほとんど。
1つの接点と、全体の体験の断絶。
自分が担当している特定のツールを作ることが目的化してしまって、全体の体験が見えてない状態になるのも「あるある」じゃないでしょうか。
サービスとビジネスの断絶もあります。
良いサービスをつくることだけをつきつめると「無償労働最高!」て話になって、ブラック企業が爆誕します。だって最高じゃないですか、めっちゃ良いサービスなのに全然高くない!という体験が提供できるから。
でも、それでは続かないわけです。わたしがデザイナーとしてどんなに「お客さんのために良いものを作りたい」と願っても、ビジネスのことを考えずに盲目的なままでは、その活動は到底継続できないでしょう。
組織、部署、価値観の断絶。
組織のどこにいるかで見える景色の違いがあります。同じ現象を見ていても、役員・マネージャー・リーダー・メンバー、こんなに受け取り方が変わるのかということを目の当たりにしました。組織だけではなく、年齢、業界、働き方、個人の価値観はそれぞれ違う。地道なコミュニケーションを抜きにして、その断絶を埋めることはできません。
断絶は価値の源
でもデザインの力で、その断絶をつなげることができる、とも思います。
まずはそもそも「違う視点が存在する」ことを認識することが必要です。発信側目線に偏りがちなとき、徹底的にユーザー目線を持ち続けるとか。ひとりの社員としての最適と、組織としての全体最適の違いがあることを認めるとか。
似たような環境や価値観の人といれば、視点も似ているから楽だけれど、それでは世界がどんどん狭くなってしまいます。
対岸に違う視点があることに気づけたら、それを理解する方法も考えられるでしょう。リサーチして情報を集めるでもいい、プロトタイプを作って試してもいい。実際にその環境や役割に飛び込んで、自分の手を動かしながら理解するという方法でもいい。
クライアントとエージェンシーという受発注関係があったとしても、ワークショップなどを通じて共に創るやり方を通じて、クライアントと同じ目線で伴走することはできると思う。
自分の中で双方の理解度・解像度が高まったら、どうすればつながるのかを考えます。共通点はないか?翻訳できる方法はないか?
「伝わるかたち」は、デザイン、言葉、写真、イラストといった目に見えるモノかもしれないし、目に見えるものではないかもしれない。組織の仕組みとか、ワークフローとか、ちょっとした雑談とか。
越境を続けているとたまにものすごく「専門外」だと感じられる分野に、ぶち当たることもあります。わたしの場合「デザイン」「ビジュアライズ」系の手段であれば思い描くことは容易でしたが、「システム構成」「KPI設計」「予算計画」となると、最初はまったくお手上げでした。
でも、すべてを高い解像度で描けなくても良いのです。最初はちょっと大変だけど、荒くてもいいのであるべき姿を考え続ければ、手がかりは見つかる。どんな知識やスキルを持っている人を探して、どう一緒に動けば目指すものをつくることができるか? の作戦だけは、立てることができるようになるはずです。
最後の最後に、目に見えるかたちが作れる、デザイナーとしての一番の強みを発揮できる。それが理想的だとわたしは思います。
断絶は大変だし、辛いこともある。
でも、放っておいたらそこは何もない状態のまま、ゼロのままなんです。
もしも、なんとかしてつなげることができたなら、そこには存在しなかった「新しい価値」が生まれる。断絶を目撃したら、価値の源だと思おう。と、いまは考えています。
変わるもの、変わらないもの
『良いデザインってなんだろう? 変わるもの、変わらないもの』というテーマでお話ししてきました。わたしにとって「変わるもの」は、頭の中に思い描けるデザインという世界の広さでした。
具体をつなげて、自分なりに描いた全体像。これをいちいちすべて自分ごととしてとらえていればこそ、時と場合によって、自分がどこを担うかの役割は柔軟に変えていい、と思えるようになった。
一方で、越境し続けても、変わらなかったものもあります。
ラスト1センチの距離で、目にするもので、誰かの心を動かしたいという気持ち。自分が何か素敵なデザインを見たときに、胸が躍り、体温が少し上がるような感覚。こういう感情を大切にしたい気持ちは変わらなかった。
今年の春に同僚のデザイナーたちと一緒に本を出しました。この本で伝えたかったのは、良いな、素敵だなと感じたものをうっとり味わう時間の素晴らしさ。ものすごく近く深く観察し、自分の目の解像度を上げていく時間の大切さ。小さな感動や発見の積み重ねが、いつかどこかで、デザイナーとしての自分の力になるんだと、わたしは思います。
最近では、狭義のデザイン、クラシカルデザインは「スタイリング」でしかない、と軽視される事があるようにも思います。でも「適切なスタイリング」の力はすごいんです。人の行動やマインドを変えられるパワーを秘めていると思う。
目を奪われる写真。手に触れる紙の質感。心地よい空間。そういった接点のクオリティにこだわり続けたい気持ちはまったく変わらなくて、むしろ強まっているように思います。
全体を描く難しさを知った今のわたしには、細部を「あとはつくるだけでしょ」って軽んじてしまいそうになる気持ちもわかります。でも、ひとつひとつの接点をつくるために、どれだけいろんな人のいろんな力が必要なのか。そこに詰まっているものを私は体験として学んできました。
全体と細部、抽象と具体が、つながっている状態がわたしが目指したい「良いデザイン」。それってどうやったら実現できるのかを、これからも考え続けたいと思います。
これは、今日いま時点でのわたしにとっての「良いデザイン」に関する物語でした。
振り返って思うのは、越境って、ぜんぜん違うところに行っちゃうんじゃない。向こう側を知ることで、むしろこちら側の自分のことがよりわかるようになる。わたしが途中で見失っていた自分軸というものが、前よりも少しわかるようになりました。
いろんな視点を得ることで、自分が持っている強みが磨かれたり、活かせる場所を自分で見つけられるようになるだけなんです。
同じように越境しながら考える仲間が増えることで、机上の空論だけでもなく、無防備なものづくりだけでもない、素敵なデザインが世の中に増えていってほしいと願っているし、そのために自分ができることはなにかを、考え続けていきたいと思います。