
ボロは着てても
ジェーン・スーさんの「生活は踊る」の相談コーナーは「独りでいるのは別に嫌いではないけど、友達が少なくひょっとして自分は嫌われているのではないかと思う」という内容だった。
これを聞いていたカミさんが「アナタどうなの?そういうの気にならないの?」
「え、どういうこと? だって僕のこと嫌いな人と一緒にいてもしょうがないじゃない」
「それってすごいハガネのハートよね… 思春期の頃もそんなだったの?」
「昔から友達は多い方じゃなかったし、人からよく思われたい、とはあんまり思わない方だったかな」
「だから洋服とかにも無頓着だったの?」
「言われてみればそうかも。ボロは着てても心は錦っていうじゃない」
「それっておかしくない?ボロ着てる時点で心が錦かどうか判定の土俵にも上がれないじゃない」
「いや、錦と思ってるのは自分であって…」
そこでふと考えてしまった。
いまでこそ、人の服装を見て「あぁ、素敵だな」とか「もう少し何とかなんないのかな」とか思うようになったけど、身嗜みに全く無頓着だった頃はよほど奇抜な格好でない限り、誰がどんな服を着ていたなんて全く覚えていなかった。つまりボロか錦かという認識も無かった。
思い当たるのは、たとえば新しい靴を買った帰りの電車では人の履いている靴が気になったこと。カミさんのお腹が大きかった頃はよく妊婦さんとすれ違ったし、ベビーカーを押している頃はそういう親子をよく見かけた。少子高齢化っていうけどこの辺りは小さい子供がいっぱいいるなと思ったものだ。
音楽に関してもそうなのかもしれない。
「どこにいってもジャズばっかりかかっているな」と思ってるのはひょっとしてそういうことなのだろうか。
思春期の頃もマイケルジャクソンとか名前程度しか知らなかったし、最近では「パプリカ」も知らなかった。そしてそれで全然困らなかった。
でもこれではいけないな、と思う。
「あれは知っている、これも知っている。それは知らないけど興味ない。それで全然困らない」
こういう人は困らないかわりに困らないことの犠牲になっているように思う。
子供の頃からマンガやゲームに興味が無くて、そういうのをどこかバカにしてたようなところがあったけど、息子が夢中になって読んでいる「宇宙兄弟」をめくってみたら非常に面白くて、息つく暇もないほどの勢いで読んでしまった。作者の小山宙哉さんという方も全く知らなかったが、 8歳が読んでも56歳が読んでも面白いってすごいことだ。聞くところによれば映画化もされた大ヒットマンガらしい。
カミさんいわく「流行っているものが必ずしも素晴らしいとは限らないけど、それなりの理由があるもの」なるほどね。
「で、最近はどうなの?歩いていて、小学生とかよく見かける?」
「うーん、そうでもないかな…」
「あ、そう。もう家族には関心が無いと…」
話が思わぬ方向に行きそうなので、お風呂に入ってきます。