優しさの理由
物心ついた時から、「優しい子だね」という言葉をよく耳にしてきた。子供の頃、それは褒め言葉なのだと無邪気に喜んでいた。
思い返すと、あの頃は優しさの意味を理解するにはまだ幼なかったと思う。
大人になるにつれて、そのことを痛感した。
社会に出てからしばらくして、優しさにはいくつかの種類があることを知った。
一つ目は、道徳の授業で習った優しさ。
人に思いやりを持って接しましょうという類のもので、子供の頃から集団行動の中で身につけてきたのがまさにそれだと思う。見返りを求めない無償の愛とも言える気がする。
二つ目は、見返りを求めた優しさ。
見せかけの優しさで相手を油断させて、その裏にある自分の目的や願望を叶えるためのもの。
それこそ、学校で習う「思いやり」の性質を逆手にとったもののように感じる。
相手が断りにくい状況を作って、「自分はこれだけしたから、これくらい返してくれてもいいよね」というような、傍から見たら半ば脅迫じみたもの。そして、それに応じなくてもいいのに素直に応じてしまう人が多いのが、また日本人らしいところだと思う。
最後に三つ目、寂しさの裏返しとしての優しさ。
生きていれば寂しさを感じることや、人に必要とされたいと願うことは誰にでもあると思う。
その心の穴を埋めるために、人は無意識に他の誰かに優しく接するのだと思う。
そうすることで、自分の存在意義を見出したり、承認欲求を満たすことができる。
けれど、きっとそれは悪いことではない。
こうした自分なりの優しさへの解釈が確立すると、何も知らなかった子供の頃に戻りたくなる瞬間がときどき訪れる。
その度に、人の好意や思いやりを素直に受け取れない自分がいるのだともどかしくなる。
優しさの理由を探ろうとするのは、もしかしたら人間不信の裏返しなのかもしれない。
きっと善人ばかりで溢れた世界なら、そこまで難しく考えなくてもよかったのだろう。
けれど、だからこそ「有難う」という言葉があって、誰かがくれる優しさを当たり前にしてはいけないのだと思った。