ウラヌスとマジレス
人間の心は一筋縄ではいかないものだ、と気付いたのはいつだったのだろう。
うんと小さな頃から、親にも説明しがたい”微妙”な感情は持っていたと思う。我慢も、鬱屈も、僻みも、諦めも、幼稚園くらいの頃にはすでにあった。
ただ当然ながらその頃の私に、人間の意識や感情に対するメタな認識はなかった。本当にただ漠然ともやもやしたり、イライラしたりを繰り返していただけだった。本当に自分の内面を、特にその曖昧模糊さを自覚するまでには、結構長い時間がかかった。
けれども、「もしかして人の心って、私が思っている以上に複雑なものなのかもしれない」という予感を抱いた日のことははっきり覚えている。
きっかけは、天王はるかであった。
そう、『美少女戦士セーラームーン』に出てくる短髪の麗人、天王星を守護に持つセーラーウラヌスこと天王はるか氏である。
私は1987年生まれで、幼稚園のときにアニメ「セーラームーン」の大旋風に直撃したど真ん中世代だ。
セーラームーンごっこで人気の役を奪い合う園児時代を経て(ちなみに私は昔も今もジュピターが好きだ)、小学校低学年の頃までそのブームは続いた。我が家はTVアニメをあまり子どもに見せない方針の家庭だったが、「セーラームーン」だけは観ておかないと社会的生存に関わるということで観ていたし、アニメブックなんかも買ってもらった。
その中に、メモリアルアルバムだかメディアブックだか名前は忘れたが、シーズンごとの各話のストーリー解説などに加えて設定資料なども一部掲載している大判のカラーブックがあって、これが大のお気に入りだった。
で、天王はるかの話になる。
たぶん7、8歳の時だったと思うが、ある年私は新しく「セーラームーンS(スーパー)」のアニメブックを買ってもらった。「S」は、はるかたち外部太陽系戦士が初めて登場するシリーズである。
この中に気になる記述を見つけた。はるかのキャラクター設定にこうあったのだ。
苦手なもの:オトコ
現物はもう手元になく、もしかしたら「苦手」ではなく「嫌い」だったかもしれないが、とにかくはるかにとってネガティブなものとして、「オトコ」と書かれていたのである(みちるの方には「ナマコ」と書かれていた気がする……)。
え、男を嫌がってるシーンなんかあったっけ?
というのが、私が最初に思ったことだった。
私の記憶では、はるかが男を苦手に思っていそうな描写はアニメの中に特になかった。そもそも「セーラームーン」に男性キャラはあまり出てこないし、はるかが接触していたのもせいぜいタキシード仮面とレイちゃんのボーイフレンドの雄一郎くらいだから判断しようがない。
だが、単なる裏設定としてとらえるには、「男が苦手」という設定は重いもののように私には感じられた。
なんでも母に質問する年頃だった私は、その本を持って母のところへ行って訊いた。
「ねえ、ウラヌスは男が苦手なんだって。なんで?」
「セーラームーン」の本編を観ていない母は困っていた。しかし、子どもの質問には必ずマジレスする母は、その場で本を読み、考えた上で言ったのである。
「この人、男の子の制服を着ているということは、本当は男の人になりたいのかもしれないね。男の人になりたいけどなれないという状態なら、憧れているからこそ見ていて嫌な気持ちになってしまうのかも」
はるかが男になりたがっている人物だとは、やはり私は思わなかった。
ただそれはともかくとして、母のこの人物解釈はものすごく強い印象を私の中に残した。
「自分にとって手の届かない、なりたくてもなれないものを、人はネガティブな気持ちで見つめることがある」
この考え方は当時の私にはまだインストールされていなかった。しかし言われてみると、そういう感情はあり得る気がする。いや、すでにそれを知っている気すらする。
理屈としてではあるが、これが私と”コンプレックス”という考え方の最初の出会いだった。
言うまでもないことだが、アニメの設定も母の解釈も、問題があるといえばかなりある。
おそらくだがこのアニメブックに記された「男が苦手」設定は、はるかを「レズビアンの”ボイ”タイプ(男性ジェンダー的なファッションや言動を自己表現に選ぶ)」として描いた上で、「レズビアンは男性が嫌い」という偏見に則ってつけたものなんじゃないかと思う。
そして、母の「ボーイッシュな格好をしているということは男性になりたいのでは」という発想ももちろん偏見だ。そういったことは、成長するにしたがってだんだんわかるようになった。
でも、ここで母が真剣に考えて打ち返してくれたおかげで、私は「人はいろんな経緯で何かを苦手になるものなのかもしれない」という考えを得ることができたのである。
愛しているからこそ憎いとか、好きだけど一緒にいたくないとか、大事だから壊したいとか。そういった矛盾を含んだ感情への予感が、幼い私の胸にたしかに残った。
こうして書いてみると、親からの真剣な応答というのはつくづく影響の大きなものだと思う。子どもの中にうずまいているまだ名をつけられていない感覚に、どうしたって強い輪郭を与えてしまうものなのだ。
だから、この時母が「〜かもしれない」と、あくまで自分の仮説として話してくれてよかったと思う。「こうなのだ」と断定されていたら、私はそれを事実だと信じ込んだかもしれない。
なお、もう少しあとの「セーラースターズ」の頃、みちるがはるかに向かって「ねえ、着替えを手伝って」と流し目で髪をかきあげるシーンを観て、私の後ろにいた母がこう言ったこともあった。
「何これ、エロいんだけど」
感性が幼く、「着替えを手伝え」というセリフもただぼんやりと聞き流していた私だったが、母のこの言葉で「そういうことか!」と気付いてしまった。やはり親のコメントの影響は大きい。私も子どもの質問に応答するときは気をつけようと思っている。