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子育てについて、何も書かない女性の方がかっこいいと思っていた

 子どもを産み育てていることを書かない女性クリエイターの方が、書くクリエイターよりもかっこいい。

 長らくそう思っていた。

 なぜかと言えば、これは十代のときに好きだった林真理子氏のエッセイの影響が多分にある。

 林氏は不妊治療を経て四十代で娘を出産しているが、子育てについての話題をほぼ文章に残していない。

 彼女が子どもについて、具体的に描写したのはただの一度だけ。出産直後に週刊文春に載せた原稿用紙20枚のエッセイ、「最初で最後の出産記」(『みんな誰かの愛しい女』収録)のみである。

 林氏はそのエッセイで、タイトル通り「子育てについて今後書く気はない」「次回からいつも通りのエッセイに戻る」と断言し、それを貫徹した。以降は娘が成人するまで、林氏のエッセイに「母として」のエピソードはほぼ出てこない。

 それどころか、赤ん坊を育てている真っ最中だとは到底思えないような、独身時代と相変わらぬ華やかな生活ぶりがひたすら続くのだ。出産記のエッセイを読んでいなければ、林氏に子どもがいることに気づかないままでいることも充分可能だろう。

 このエッセイを読んだのはまだ中学生の頃だったが、妹弟がいることもあり、「子どもがいるのにそれを一切感じさせない」ことのハードルはうっすら想像できた。普通の人にはできないことだと思ったし、だからこそ林氏のことをすごいと感じた。

 将来物書きになる気満々だった私は「プロフェッショナルはこういうものなのだ」と素直にかぶれ、自分もいつか子どもを産んだとしても、そしてその時になんらか表現手段を持っていたとしても、それについていちいち書いたりしない女になろうと心に決めたのである。

 もう少し大きくなってからも、基本方針は変わらなかった。そういう話には触れず、涼しい顔で子育てをすませながらものを作っている女性のやり方の方がより過酷な道であり、それゆえに正しいのだという感覚があった。

 子育ての苦労などを書き残す人に対してはどうだったかというと、ある種の弱みを見せているような印象を持っていたと思う。つまり「愚痴をこぼしている」くらいの認識だったのだ。

 私が大学生の頃には、漫画家・荒川弘氏が『鋼の錬金術師』の連載を一度たりとも休載せずに第一子を産んだという”事件”もあった。これは当時、ネット上で結構話題になったと記憶している。

 私も、たしか本誌の作者コメントで出産報告を見たのだが、「やっぱりすごい人ほどさりげなく、そして仕事に支障をきたさずに出産しているんだ」と唸ったものである。

 今振り返ると、一連の私の感想は、社会全体の女性蔑視やケア労働の軽視、「頑張り」至上主義にもろに影響された価値観だなあと思う。

 「ちゃんと仕事ができている状態」のことを、私は「出産・育児・家事などにリソースを配分せずに仕事に邁進できる健常者男性」ベースでしか考えていなかった。たとえそういったある種のハンデを持っていても、それがないかのように振る舞えてこそ他と”差”をつけられるのだ、という発想だった。

 その後、自分でもエッセイコミックの本を出すようになってからはしばしば「子どもを産んだらまた一冊描けるね」と周りから言われたけれど、それにも「いや、自分はそういうものは描かない」と返していた。

 その頃には三十近くになっていたから、さすがに十代の頃ほど「子育ての話題を出すのはかっこ悪い」とは思わなくなっていたし、子育てに関するコンテンツのニーズの高さ、有用性なんかもわかるようになっていた。けれども、だからといって自分にその分野の”ちゃんとした”発信ができる気はしなかった。見苦しくないように、言い訳にならないように、”適切に”この分野のことを書くなんて無理だという感覚があったし、妊娠してからも、産んだ直後もその心境に変化はなかった。

 出産や育児についての話は最小限にしよう。どうせ何言ってもクソリプがくる分野だし、私なんて変わった体験をしているわけでもなく、何のコンテンツ性もありゃしないんだから。子育ての影響を感じさせずに活躍している人の書いたものを読んで、自分もそうできるように頑張ろう。

 ……と思っていたのが、まるで前世の頃のことのようだ。
 

求む・子育てしながらの執筆話!

 今の私は、まるきり逆である。つまり、「出産や子育てについて、またそれらと執筆活動を並行させるライフスタイルについて生々しく書いている作家」を日々血眼で探している。

 「子育てはしているがそこに一切触れていない人」のことはウォッチリストから早々にはずし、子育てを含む慌ただしい日常の中で、どうにか執筆しているらしき人たちに次々チェックマークをつけているのだ。なんたる手のひら返し。

 今日もこれを書き始める前、台所をうろうろする一歳児の後を追いかけながら、「そういえば、スーザン・ソンタグの日記には育児の話ってどのくらい出てきたっけ」と気になり、7〜8年は読み返していなかった『私は生まれなおしている 日記とノート1947-1963』(河出書房新社)を棚から掘り起こして、ページをめくりまくっていた(育児そのものについての記述は多くないが、それでもところどころ子ども関連のメモがある。編者がその息子自身なので色々削除されたのかも、とは思う)。

 読みたい。書くことをライフワークとする女性たちの、乳児や幼児を抱えた状態での孤軍奮闘についての吐露をもっと読みたい。

 それも「大昔のことを懐かしむ」みたいなのでは嫌で、採れたての山菜のような、新鮮なエグみのある状態でお願いしたい。でもあんまない。おかげで本棚をひっくり返しながら、「もっとみんな、きついときのことを書いておいてくれよ」と勝手なことをブツブツ言っている。

 子どもを産んだあとのままならない体や感情や生活について、特にどうということも書かずに済ませている人のことを、私はやっぱり今でもかっこいいと思う。それはやっぱり、育児語りが大なり小なり「弱音」を含みやすく、私自身が「弱音を吐きたくない」という見栄から完全には脱却できていないからだろう。

 しかし一方で、今の私が、つまり一歳児の生命維持というミッションで日夜消耗している37歳の私が心の底から求めているのは、かっこいい人ではなくもがいている人の姿であり、生々しい声なのだ。

 なぜ「リアルタイムでもがいている声」がこんなに響くのだろう?

 一人じゃないと思えるから……というよりも、私の場合はただただそこに、不屈のエネルギーのかけらを見るからだと思っている。

 どれだけ困難を感じていたとしても、何かを書いているということは、自分を他人のように見つめる心の目があり、文章表現を生み出す創造性があるということだ。それはその人固有の力の結晶だ。

 私はそれを見たい。それに触れると励まされる。焚き火を見ているときのように。

 これがかなり表面的で、安直な欲望であることは承知している。

 育児について露骨に書かない人だって、こちらにはわからない苦労をたくさんしているかもしれない。いや、大抵の人はしているはずだ。書かない、イコール余裕がある、なんて式は成り立たない。

 そもそも育児以外でも、本人の病気だったりほかの家族のケアだったりでままならない生活を送っているパターンだって多い。子育てと関係ないテーマのエッセイや小説に励まされることだっていくらでもある。だいたい、物書きの「盛る」技術を思えば、わかりやすく書かれた苦労がナンボのもんなのか、という斜めスタイルの観点もあるかもしれない。

 それでも、どうしようもなく求めてしまうのだ。

 乳児に気力体力を持っていかれながら、それでもなんとか絞り出した二、三行について。

 あるいはこのあと一時間とれる、と思いながら予想外の子ども関係のトラブルでその一時間を失ったときの足のふんばりについて。

 インプットがままらない中で、慈雨のように心に沁みた本や映画について。

 別に何か素晴らしい教訓や、大感動するような話につながらなくていい。ただ実直で濃密で真実味のある、「育てながら書いている」話を私は読みたい(※1)。
 
 そして、こうも思う。私がそれを求めているということは、きっと私以外にも同じ状態の人はいる。なら、私がこのみっともない生活について書き残すことにも、多少の意味はあるのかもしれない。

 やろうとしたことがことごとく打ち砕かれ、何も残せず、日々無数の妥協を重ねてやり過ごしている状態が、短くなった蝋燭の先の小さな炎となり、元気が出なくて落ち込んだりイライラしたりしている人の気を紛らわすのに一役かうかもしれないのだ。

 そこまで考えて、ようやく出産や子育てについて語ることへの罪悪感が薄れた。

 本当にそれを書きたいと思えるなら書けばいい。どれだけしょうもない、やまもおちもない話であろうと、そこに私が何かひとつでも自分の真実を入れこめるなら、きっとそれは書いた方がいいものなのだ。誰かにとって。そして何より自分にとって。
 

 昔は、ただ単純にかっこいい人になりたかった。

 今もかっこいい人には憧れる。だがそれと同時に、もがく中でも力を失わない人間であり続けたい、と思っている。それは挫折しないということでも、折れないということでもない。

 駄目かもしれない、それでも「駄目ではないかもしれない」と思う力を持ち続けるということだ。
 
 
 昨日も疲労と眠気に負けて、文章を書かずに子どもと一緒に早く寝た。

 でも今日は少なくともこれを書いた。だからよしとしよう。林真理子にも荒川弘にもなれないけど、私は私になれる。

※1 ちなみにこの欲望に応えてくれる書籍の例としては、メイソン・カリーによる『天才たちの日課 女性編』(フィルムアート)があげられる。多様な女性クリエイターたちの生活の断片が伺える内容で、その中には当然、育児と仕事のせめぎ合いに悩む女性の姿もたくさん登場する。副題の「自由な彼女たちの必ずしも自由でない日常」という文面に、痛気持ち良いツボを押される一冊だ。おすすめ。

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小池未樹
読んでくださりありがとうございました。「これからも頑張れよ。そして何か書けよ」と思っていただけましたら嬉しいです。応援として頂いたサポートは、一円も無駄にせず使わせていただきます。