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獅子と編み物

※この記事は、「ウルトラマンレオ」の盛大なネタバレを含みます。


 1月の35歳の誕生日に、友達がウルトラマンレオのフィギュアをくれた。私がレオ好きだからと、わざわざ抽選に申し込んで入手してくれたのだという。嬉しい。

「最近やっていた『ウルトラマンZ』のZはねえ、君の好きなレオの弟子の弟子なんだよ」

 フィギュアをくれた友達にそう言われて、自分が歳をとったことをひしひしと感じた。レオの弟子の弟子!

 今、このフィギュアは私の部屋の棚に飾ってある。仔馬の人形と、アロマキャンドルのうしろに、ウルトラマンレオが控えている。

 私はものが増えるのは好まない方だ。特撮もアニメも好きだけれど、昔からグッズの類はほとんど買わない。だけどレオならあってもいいな、と今回初めて思った。レオは私にとって、9歳のときからずっと、特別なヒーローだからである。

 というわけで今回は、「ウルトラマンレオ」の思い出話をする。

 いきなり変なことを言うと思われるかもしれないが、レオの姿を見ると、実は私は「死」のことを考える。そう連想するように、身体ができてしまっている。メメント・モリだ。

 「死」といっても、別に暗く考えるのではない。怖くもない。ただ端的に想起するだけだ。人間は死ぬ、私もあの人もみんなあっけなく死ぬ、ということをただ思う。なぜかというと、むかし父親が死んだときに、まだ小さかった弟をあやすためにほとんど一日中見せていたのが、この「ウルトラマンレオ」という作品だったからである。

 

 父が死んだのは1996年の秋だった。くも膜下溢血で倒れて緊急搬送され、入院したままどんどん状態が悪化し、手術も行ったものの一ヶ月で心肺停止に至った。当時私は9歳、妹は7歳、弟は3歳。母は30代の専業主婦だった。

 親戚付き合いも何もない家だったから、父が入院した時点でそれはそれは大変だった。母は昼夜を問わず病院に詰めなければならず、私たちきょうだいは子どもだけで過ごす他なかった。

 母の不在を寂しがる弟に、私がしてやれるのは一緒に遊ぶことだけだ。だから家にいる間は、とにかくビデオを流しまくり、弟と一緒にひたすらウルトラマンごっこをしたり、一緒に特撮蘊蓄を覚えたりして過ごした。妹は弟ほど特撮好きではなかったが、それでも一緒になって遊んでいた。

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私と弟

 今でこそ、NetflixやU-NEXTでいつでもいくらでも昔の特撮作品を子どもに見せられる時代だが、25年前はもちろんそんな状況ではない。私は毎週、母からもらったお金を持って近所のレンタルビデオ屋に行き、とりわけ安く借りられる古い特撮ビデオをごっそりと抱えて帰った。
 
 そんなビデオ漬けの日々のなか、宗岡家が満場一致で気に入っていたのが、この「ウルトラマンレオ」だったのである。

 借りたきっかけは、おそらく「必殺技集」だか「主題歌集」だかのコンピレーション系ビデオで知ったからだったと思う。しかし、どこでどう気に入ったのかは忘れてしまった。気づいたらレオばかり観るようになっていたのだ。「カーレンジャー」も「ビーファイターカブト」も「ウルトラマンティガ」も大好きだったが(今も!)、なぜだか「レオ」には及ばなかった。

 「ウルトラマンレオ」のビデオを、私たちは飽きもせず繰り返し流した。父の入院期間中も、死んでからのしばらくの時期も頻繁に。レンタルビデオで見続けていたので、全巻を何巡も借りていたことになる。集中して観ていたというよりは、生活の中に、まるでバラエティ番組のようにずっと流している感じだった。母は帰宅が夜遅くになることも多かったが、そういうときも全員でビデオを観ながら起きて待っていた。そして帰ってきた母とてんやものなんかを食べながら、また一緒にビデオを観るのだ。

 我が家の家族はみんなこの時期、レオに救われていたと思う。荒唐無稽な特撮を観ているあいだは、家族がじわじわ死んでいく恐怖やそのあとの喪失感、唯一の稼ぎ手がいなくなったことで発生する金銭や時間をめぐる現実的な苦しみ、そういったすべてを保留にできた。

 
 なんで、セブンでもジャックでもなくレオだったのか。当時はわからなかったけれど、今ならわかる気がする。

 「ウルトラマンレオ」は、ウルトラシリーズの中でもちょっと変わった作品だ(と思う)。
 
 何がどう変わっているのか、を克明に説明するとなるとここから2万字書くことになるのでなるべく簡単にすませる。「ウルトラマンレオ」は、ウルトラシリーズの中でも特にストーリーが陰惨なのだ。腐っても子供向けなので全体を通して暗いわけではないし、最後もハッピーエンドだが、主人公のレオ(地球人名はおおとりゲン)が負っているヒストリーも本編の展開も、「普通に考えたら悲惨すぎるだろう」と思うような内容なのである。

 まず、主人公の周りの人間(含む宇宙人)のほとんどが死ぬ。 

 「ウルトラマンレオ」の主役のレオは、L77星という星の王子である。彼が地球にやってきたのは、マグマ星人という宇宙人に故郷を全滅させられたからだ。つまり物語開始時点で、家族も国民も皆殺されている(のちに弟が生き延びていることが判明するが)。

 彼は地球に来てからすぐに友人や恋人をつくり(地球に亡命してきて1ヶ月で恋人をつくるチート系主人公レオ)、ウルトラセブンという師匠を得て、地球防衛隊であるMACの一員にもなる。しかし、この人々も終盤でほぼ全員死ぬ。友達も、恋人も、師匠も、戦う仲間たちも一気に宇宙人によって殺されてしまうのだ。

 「レオ」の陰惨さは死人の量だけではない。暴力表現もやたらめったらグロい。第1話の冒頭から、セブンが脚を割り箸のようにボリッと折られたりする。宇宙人に襲われた地球人の死に方も、目から血をダラダラ流したり、溶かされたり肉塊となったり、怪奇映画のようなバリエーションに富んでいる。

 極め付けには、主役のレオまでもが最終回で一回しっかり殺される。その殺され方というのも普通ではない。氷漬けにされながら、生きたまま刃がギザギザのノコギリで体をぶつ切りにされるのである(興味がある人は「レオ ノコギリ」でググってください)。まだ意識のあるうちにギコギコ刃物を入れられていくレオの姿は、幼かった宗岡家の3兄弟を戦慄させるに十分であった。いやこんなん子ども向けでやっちゃ絶対ダメだろ

 なんで「ウルトラマンレオ」はこんなにも悲惨な展開・演出に満ちているのか? 答えはおおむね、低予算だったからだと言われている。

 「ウルトラマンレオ」の放送年は1974〜1975年。第一次オイルショックの直後であり、高度経済成長の終わりの始まりだった。経済的な停滞に連動するかのようにノストラダムスの大予言などのオカルトが流行り、子ども向けエンタメ作品にもそのカラーが色濃く投影されていた。

 「低予算」という観点で見ると、たしかに「レオ」はチープである。光線技をあまり使わないし、セット撮影も全体的に少ない。怪獣のデザインや着ぐるみも、初期シリーズの頃と比較すると明らかにショボい。特撮なのにモノがあまりないからこそ、映画「ジョーズ」のようにおどろおどろしい雰囲気や人間の痛がり・怖がりなどでインパクトを出すのだ。しかも終盤に向けてどんどん予算を削減していったため、少なかったセットは更に減り、出演人数も少なくなっていく。……もうお分かりだろうが、終盤の皆殺し展開も経費削減のためなのだ。

 各話の完成度も、「ウルトラマン」や「ウルトラセブン」時代には遠く及ばないと思う。だいたい、統一感というものがあまりにない。初期はカンフー映画ばりの熱血修行もののノリなのに、中盤は子ども向けを意識して急に明るく幼稚な雰囲気になる。かと思えば終盤に入ったらいきなり関係者一同殺され、にもかかわらずセット撮影を最小限にするため日常パートは完全にホームドラマの世界観になる。そして、どれだけ周囲の人間を殺されてもそれほどしつこく落ち込むでもなく、日々前向きに元気に戦うウルトラマンレオ=おおとりゲンはそこだけ見るとやや怖い。

 しかし、である。

 それでも、なのかだからこそ、なのか今になってはもはやわからないが、とにかくこんな奇妙な設定下にあっても、ウルトラマンレオは抜群にかっこよかった。
 
 そう、レオはかっこいい。問答無用でかっこいいのである。

 まず、よく言われることだが主題歌がすばらしい。前期後期と2パターンあるが、人気が高いのは前期である。初期ウルトラマンの「マーチ」的なノリとも前作「タロウ」のポップ感とも違う、やや暗く激しい曲調。阿久悠作詞の歌詞も、「地球の最期」「何かの終わり」を示唆しつつも、勇壮な若者を鼓舞するような熱い内容でアガる。

 そして、何よりレオ本人がかっこいい。役としてのレオ=おおとりゲンは(悲惨な目に合いすぎてやや情緒欠落の面があるのかもしれないが)とても気立てのいい好青年だし、演じる俳優の真夏竜氏も、スポコン劇画から飛び出してきたような濃くて爽やかなイケメンである。ガワとしてのウルトラマンレオのデザインも、大胆でかっこいいと思う。

 また、スーツアクター好きである私が一番強調したいのは、レオのスーツアクターの二家本辰巳氏のスタイルの良さと、アクションの華麗さである。二家本辰巳氏はベテランのアクション俳優で、のちに殺陣師として北野武「座頭市」なんかも担当している人だ。すらりと手足の長いそのシルエットの美しさは群を抜いているし、空手からアクロバットな回転技、ヌンチャクアクションまですべてが見事にキマっている。昭和の、まだ今ほど質の高くないボディスーツでこんなに激しく的確なアクションができるのは、驚異の身体能力の成せる技である。

 もっと詳しく書きたいが、長くなるのでやめる。

 全体的になんだかチープだし変にグロいし、ストーリーもドタバタ落ち着かない。何がしたいんだかよくわからない。だけどそれでもレオは熱く優しくかっこよく、私たちはそんなレオに惚れ込んだ。いや、むしろこうした歪さこそが、当時の私たちにはフィットしたのだ。


 小説家の吉本ばなな氏が子ども時代からホラー映画を好み、ことにダリオ・アルジェント監督の作品を愛していたことは有名である。『人生の旅をゆく3』というエッセイ集の中で、吉本氏はこう書いている。

「日常がホラーである日々を生きたことがある繊細な人は、やがてホラー映画の中にサバイバルの極意を見出すようになるのです。それは自分が通ってきた道でもあるのですから」

『人生の旅をゆく3』

 父を亡くすというのは、世間一般においてはそこまで特殊な経験でもない。それでも、9歳の私には圧倒的に大きな出来事だった。家庭環境の変化も含め、ある意味では”怪獣”の到来に近い、大きな脅威を感じていただろうと今では思う。特撮に手を出した直接の理由は弟が小さかったからだが、あの時期にみんなでぼんやり特撮を観ていたというのは、なんだか納得のいくことのように思うのだ。特に私はさほど繊細な人間ではなく、かつ気弱ではあるので、「ちょっとグロい特撮」くらいでよかったのかもしれない。

 大人になってから、母とメールでこのときの話になった。みんなで本当に一生懸命、ずっとレオを観ていて面白かったね、と母は書いてきた。そうだった、と返事をしていたら最後にこんなメールがきた。

「編み物してるみたいだった」

 編み物という言葉を見た瞬間に、少し泣きそうになった。他の人に伝わる比喩なのかどうかはわからない。でも私にはもちろんわかった。私たちはあの頃、力を合わせて黙々と”何か”をしていたのだ。全員でそうっと、何かを壊さないように、間違えないように。それは単純作業のような、だけどどこか”つくる”に近いような何かだったし、それを「編み物」と表現するのにはしっくりきた。しっくりきすぎて涙が出そうになったのだ。

 日常は淡々と流れていた。誰もさして悲壮ではなかったし、笑顔もあった。人が死んでも、その前後の生活というのは意外と呑気なものなんだな、と子どもながらに感じた覚えがある。だけど一方で、私たちにはレオを観る時間が必要だった。

 第一話で、ウルトラセブン=モロボシダンがレオに、自分のあとを任せると語るシーンがある。レオに「自分の代わりにこの地球を守るんだ」と頼み、夕陽を指差してこう言うのだ。

「あの沈む夕陽が私なら、明日の朝陽はウルトラマンレオ、お前だ」 

 私たちはあの頃、沈む夕陽の中に暮らしていた。だからこそ、セブンでもなくエースでもなく、私たち家族にはやはりレオだったのだろう。神秘的で各話の完成度の高い初代ウルトラマン(殿堂入り)や、ピンチになるたび家族が次々助けに来る御曹司のウルトラマンタロウ(いや好きだけどね)ではなく。

 すべてを失った亡国の王子。
 友達にも師匠にも恋人にもどんどん死なれながら、それでも(謎に)元気に戦い続けるウルトラマンレオ。
 やたらと素手で怪獣に殴りかかり、初戦は結構負けるレオ。
 氷漬けにされながら、生きたままのこぎりでぶった切られたかわいそうなレオ。
 最後にはまた、たった一人きりで旅に出てしまったレオ。


 たとえすべては低予算故のめちゃくちゃさなのであっても、登り続ける朝陽の君でなくては。



 あの頃トオル少年とほぼ同い年だった私は、いまやおおとりゲンの20歳を越え、レオ指導時のセブン=モロボシダンの30歳も越えた。

 今でも人生が大変なときや気分がくさくさしてしょうがないときは、カラオケで「ウルトラマンレオ」を歌うことがある。そして「レオなんか、こんなに悲惨な目にあったけどこんなに頑張ったんだから私も頑張ろう。別に生きながらノコギリでぶった斬られてるわけじゃないし」と自分を鼓舞したりする(比較対象が極端だが)。

 ヒーローとはそういう存在だ、と大人になってますます思う。あの頃も、35歳になった今も、私は彼らに守られているのだ。

 とりあえず「ウルトラマンZ」も観ます。


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小池未樹
読んでくださりありがとうございました。「これからも頑張れよ。そして何か書けよ」と思っていただけましたら嬉しいです。応援として頂いたサポートは、一円も無駄にせず使わせていただきます。