「書けない」ということについて

 「書けない」ということは極めて緊迫した様相を纏って、私の主観世界を構成し始める。よく言うように、書くことは即ち考えることだからだ。したがって、書けないということは考えていないことを意味する。そしてデカルトの格言をもじって言えば、「我無し、我思わざるゆえに」。哲学の第一原理によって、書けない私は存在を失う。素朴に場としてある世界に、私はいない。これを我が身の実存の危機と言わずして何というか。
 「書けない奴、ガチで危機感持った方がいい。厳しいって。弱いって。最後に腹からことばを生み出したのいつ?」ガルシア=マルケスやトルストイのような世界の堂々たるストーリーテラーたちは、次から次へと泉のように湧き出すことばを必死で汲み続けたのだろう。全く、私はそのことに劣等感を抱くばかりである。私の心は、マロースなシベリアのラーゲリに幽閉されて渇き切ってしまっている。いや、ラーゲリにいるならまだ良かった。ドストエフスキーのあの地下室人気質のリアリズムはその経験が昇華されたものだからだ。温室でぬくぬくと、食べるものがいつでも目の前にあって(それがどのような経緯を経てそこにあるかを想像する必要もなく)、病の恐れもなく、娯楽という名の怠惰な享楽がまさに過剰に与えられる、そんな生活から生まれることばが果たして彼らのものと並びうるというのだろうか。とんでもない! ことばに関して言えば飽和とは貧困なのだ。
 ところで、ことばを編み上げたものを一箇の芸術に仕立て上げることは可能である。つまり小説のことだ。芸術は精神現象学的なものであるのだから、小説が真に芸術であるためには、この原理にかなっている必要があると私は考える。芸術は、精神が捉える世界の範囲を拡大しうる。本当はヘーゲルやら、天才論を持ってきて論じる必要があるだろうが、これについては一度考えたことがあるので、結論だけ使うことにする。精神現象学的な芸術とは一言に、芸術を通して見えないものが見えるようになるということだろう。精神にとって見えないものとは、精神にあらざるものであり、それは本来的に暴力である。したがって小説が真に芸術であるためには、それはこれまでに可視化されていなかった暴力を表現していなければならない。原理主義的にはこのような解釈、あるいは意義づけが可能であろう。私が書こうとしているのが小説であれ評論であれ、そのように現実を見つめる目がまずは必要だ。しかし、その当の本人が適切に現実を生きていないのだから、現実を注視するどころか、見るべき対象をも持たないことは、事態をより喜劇的なものにさせている。ひたすら読むだけに徹している空想人に、書くべき現実など顕現してこない。そして、何より、未だ現実化していない空想的な内面から吐き出されるエクリチュールは当然、かすみのようなもの、空疎なものである。第一、相手取ろうとしているものがあまりにも巨大すぎるのだ。ロシア文学論が書きたいって? ん? 『戦争と平和』を通読してない? 『白痴』も『猟人日記』も『死せる魂』も『オブローモフ』も『青銅の騎士』も『かもめ』も? ふふっ。話にならないね。そんなので何が論じられるというのだい? 出直してき給え。せいぜい数冊の文学論を通して知った「雰囲気」で何かを言いたくなっているだけなのだろう? それならすでに読んだ数編の読書感想文でも書いておれ。……しかし、私はやはり天邪鬼だ。1冊について語るのに、どうして感想文のような要約が可能だろうか。すでにその作品は1つの作品としてそこにあるのだから、それが伝えていることはその作品によって十全に表現されていると考えなければならない。要約などしようものなら、もはやその作品ではない。数百字程度の感想なら、読み手も書き手も、そのことはまだ承知しているであろうが、中途半端に数千字も費やせば、お互いにその承知を忘れてしまうだろう。(お互いに「書いた気」、「読んだ気」になるのは、バイアスの温床であり、有害ですらあるということ。)ましてや、ロシア史を論じるなど論外もいいところだ。哲学を語る以上に、そしてロシア文学を語る以上に危険なことだ。被抑圧の人々への連帯を示すよりも多くのことは、素人が手出ししてよいものではない。イデオロギー的判断を極限的に薄めうるだけの調査ができて始めて、それはようやく許されてよいのではないか。さらっと書いたこの一文に、どれだけの資料と専門家の努力が詰まっていることか!
 そういうわけで私はまだ書けない。革命歌は「Кто был ничем, тот станет всем.」と歌うが、それは思想あってのことだ。それを欠いては、ただの暴動に過ぎない。私は何者でもないこの時間を耐えねばならない。

以上🦚

いいなと思ったら応援しよう!