Homo lectio

読むとはなんだろうか。
読んで手に入るもの、例えば知識というものを考えてみよう。
知識とはある「知られるべきもの」が「知る者」と一体化を果たすときに獲得されるものである。
つまり主体としての知るものと対象としての知られるものとの関係によって「知る」ということは定義される。
なるほど、読むということにおいてもこの関係は保存されるに違いない。
読むのはこの私である、そしてこの私が読まれるものとのある関係を作り上げる。それが読むということである。

本は人の英知の集合体、古今東西すべての本を読み漁るのが、私の叶わぬ夢よん

真希波・マリ・イラストリアス

では、読まれるものとは何か。
マリが言うには、それは人の英知である。
そして読まれるものとして実在を得た英知はすなわち本として文字として言葉として結晶している。
さらに彼女の言葉でもうひとつ読み解くべきことがあるとすれば、本において英知は単一物ではなく、集合体を成すということである。

本を書くということは、書き手の立場からいうと、やはり、一つの世界を構築するという仕事である。

梅棹 忠夫『知的生産の技術 』

そしてこの集合体とは、書き手が本を書く時に構成した世界である。

世界は成立していることがらの総体である。

L.ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』

つまりここで本として結晶しているひとつ一つの英知というのは、成立していることがらに他ならない。
まとめよう。
「私は読む」とき、書き手から滲み出た英知たる個々の成立事象(=世界)と対峙している、そして私はこれらとのある関係を作り上げることを目指しているのである。


私がある成立事象に対峙している、このとき私にはベンヤミンの説くメシア的唯物史観と全く同質な態度を要求されるように思えてならない。

これに対して唯物論的な歴史叙述には、構成という原理が根底にある。というのも思考作用には、思考の動きだけでなく、その停止もまた属している。現在と結びついている過去の一定の星座的布置が様々な緊張を孕んで飽和状態にいたっているときに、思考作用が急に停止すると、その布置はショックを受け、モナドとして結晶することになる。史的唯物論者が歴史的対象に取り組むのは、外でもない、対象がモナドとして自分に向き合ってくる場面においてのみのことなのだ。

ヴァルター・ベンヤミン『歴史の概念について』

ベンヤミンはその途上に〈例外状態〉を容認しうる歴史主義=普遍史=進歩史観を超克すべくこのような立場をとる。
彼の史観においては、個々の歴史的対象は因果的な連結を免れなければならない(思考作用の停止)。現在との関係において星座的布置をなしている過去の出来事は、このとき自己完結的な総体(モナド)として、現在を生きる我々の前に姿を現すのである。

このようにして成立する構造体のうちに史的唯物論者は、ものごとの生起がメシア的に停止するしるしを見てとる。言い換えるなら、抑圧された過去を解き放つための戦いにおける、革命的チャンスのしるしを見てとる。彼はそのチャンスをとらえて、歴史の均質な過程を爆砕して特定の時代を取り出し、その時代のうちから特定の人物の生涯を、さらにはその過程の生涯になされた仕事のうちから、ある特定の仕事を取り出す。

ヴァルター・ベンヤミン『歴史の概念について』

そして歴史的対象というのは、現在を変容させるポテンシャルを持ったものとして現在に呼び戻される(解き放つ、爆砕して取り出す)。
まとめると、ベンヤミンは現在を変容させるべく歴史的対象を現在と接点を持ったものとして捉えることを要求している、そして現在と個々の歴史的対象の時間的並列関係を星座的布置(コンステレーション)という象徴的な言葉で表現している。
ベンヤミンのいう歴史的対象が世界を構築する成立事象なのだとすれば、彼が要求する史的認識主体の態度はホモ・レクシオ(読む人)たる私に要求される態度そのものである。

彼の態度をもう少し、一般化しておこう。文化人類学者レヴィ=ストロースは歴史に対し下記のような興味深い発言を残している。

歴史家は50年前、100年前または200〜300年前の私たちの社会の生活条件を再現して見せてくれますが、そのとき、私たちの社会の生成の切断面の一つ一つが民族学のモノグラフィーのようなものだと私は感ずるからです。つまり、ある社会の歴史の各段階が、それぞれ異なる社会の一つ一つのように思えるわけです。民族学者と歴史学者を隔てる唯一の差は、実際的には、前者が空間のなかにある色々な社会の研究であるのに対し、後者は時間的に積み重ねられた社会を研究する点です。しかし、軸は異なっても、実際は同じことをやっているのです。

クロード・レヴィ=ストロース『構造・神話・労働』

ベンヤミンのいうコンステレーションは過去と現在との関係という点において時間的な並列性を持った関係である。一方、レヴィ=ストロースの言葉から民族学(文化人類学)の立場ではそのコンステレーションを空間的な並列性にまで拡張可能であることが示唆される。私はこの時空間的広がりを持った事象の総体を4次元的コンステレーションとでも名付けておきたい。


枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたも私につながっていなければ実を結ぶことはできない。私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。

ヨハネによる福音書15章

読むとはなんだろうか。
読むとは自己の世界接続の試みである。
そしてそのとき眼前に広がるのは、人の英知が織りなす広大無辺の4次元的コンステレーションである。この4次元的コンステレーションは私にとっての世界の関係であると同時に世界にとっての私の関係でもある。
すなわち私は読むことを通じて果たす世界接続は、世界の中に私を位置付けることに他ならない。

🦚以上🦚

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