Homo lectio
読むとはなんだろうか。
読んで手に入るもの、例えば知識というものを考えてみよう。
知識とはある「知られるべきもの」が「知る者」と一体化を果たすときに獲得されるものである。
つまり主体としての知るものと対象としての知られるものとの関係によって「知る」ということは定義される。
なるほど、読むということにおいてもこの関係は保存されるに違いない。
読むのはこの私である、そしてこの私が読まれるものとのある関係を作り上げる。それが読むということである。
では、読まれるものとは何か。
マリが言うには、それは人の英知である。
そして読まれるものとして実在を得た英知はすなわち本として文字として言葉として結晶している。
さらに彼女の言葉でもうひとつ読み解くべきことがあるとすれば、本において英知は単一物ではなく、集合体を成すということである。
そしてこの集合体とは、書き手が本を書く時に構成した世界である。
つまりここで本として結晶しているひとつ一つの英知というのは、成立していることがらに他ならない。
まとめよう。
「私は読む」とき、書き手から滲み出た英知たる個々の成立事象(=世界)と対峙している、そして私はこれらとのある関係を作り上げることを目指しているのである。
私がある成立事象に対峙している、このとき私にはベンヤミンの説くメシア的唯物史観と全く同質な態度を要求されるように思えてならない。
ベンヤミンはその途上に〈例外状態〉を容認しうる歴史主義=普遍史=進歩史観を超克すべくこのような立場をとる。
彼の史観においては、個々の歴史的対象は因果的な連結を免れなければならない(思考作用の停止)。現在との関係において星座的布置をなしている過去の出来事は、このとき自己完結的な総体(モナド)として、現在を生きる我々の前に姿を現すのである。
そして歴史的対象というのは、現在を変容させるポテンシャルを持ったものとして現在に呼び戻される(解き放つ、爆砕して取り出す)。
まとめると、ベンヤミンは現在を変容させるべく歴史的対象を現在と接点を持ったものとして捉えることを要求している、そして現在と個々の歴史的対象の時間的並列関係を星座的布置(コンステレーション)という象徴的な言葉で表現している。
ベンヤミンのいう歴史的対象が世界を構築する成立事象なのだとすれば、彼が要求する史的認識主体の態度はホモ・レクシオ(読む人)たる私に要求される態度そのものである。
彼の態度をもう少し、一般化しておこう。文化人類学者レヴィ=ストロースは歴史に対し下記のような興味深い発言を残している。
ベンヤミンのいうコンステレーションは過去と現在との関係という点において時間的な並列性を持った関係である。一方、レヴィ=ストロースの言葉から民族学(文化人類学)の立場ではそのコンステレーションを空間的な並列性にまで拡張可能であることが示唆される。私はこの時空間的広がりを持った事象の総体を4次元的コンステレーションとでも名付けておきたい。
読むとはなんだろうか。
読むとは自己の世界接続の試みである。
そしてそのとき眼前に広がるのは、人の英知が織りなす広大無辺の4次元的コンステレーションである。この4次元的コンステレーションは私にとっての世界の関係であると同時に世界にとっての私の関係でもある。
すなわち私は読むことを通じて果たす世界接続は、世界の中に私を位置付けることに他ならない。
🦚以上🦚