Тютчев #1

 チュチェフはロシア文学史上の他の誰にもまして「夜の子供」と呼ばれるにふさわしい人だった。彼こそは、「夜は深い!」と叫んだニーチェの、あの夜の深さを胸に秘めた詩人、宇宙と魂との幽邃な夜の風景の歌びとだ。しかもこのロシアが生んだ最初の象徴的哲学的詩人が、彼独特の、あの深い愁いの翳さした言葉をもって描き出す夜の風景は、決して現実の感性的な夜景ではなく、そういう現実の夜の暗黒を象徴としてのみわずかに表象されるような、全く異次元の夜の闇なのである。

井筒俊彦『ロシア的人間』(中公文庫)p.172-173

(そういうわけでФёдор Иванович Тютчевという詩人はわたしの興味の対象になり得るのですが、ざっとググってみたところほとんど翻訳が出ていないようです。なれば、自分で訳そう。そのために勉強するのだから。)

Умом Россию не понять,
Аршином общим не измерить:
У ней особенная стать —
В Россию можно только верить.

Федор В. Тютчев
https://www.culture.ru/poems/46430/umom-rossiyu-ne-ponyat

(まずは短くて、インパクトのあるものを。彼をウィキペディアで調べて出てきた格言めいたものにあたってみました。)

頭でロシアを理解することはできない
何アルシンあったって測ることはできない
ああ、崇高なるロシア!
あなたに抱かれてあなたの全てを知るのです

(拙訳)

全体観について

 あまり説明するのも野暮ですが、結論はもちろん第1連で言い尽くされています。ドストエフスキーが作り出した「カラマーゾフ的」というあの形容詞で言わんとするそれです。自然も人間も激情的に生まれつくロシアという地への愛を謳った詩だということです(主観)。そして声に出して読んでみると、第4連のリズムが心地よい。あと、第2連のАршиномとобщимにも韻を感じます。あるいはまた、上手に読めば第1連と第3連も韻を踏むのかもしれません。(詩の作法は勉強していないのでわかりませんが。)

翻訳の注意

  • Умом:умの前置格、「理知、頭脳」などの意。前置詞がないのに前置格なのはよくわかりませんが、в=inぐらいを補足して「頭の中では」ぐらいの意味を想像すればよいのかと思います。ただし、第1連全体はウィキペディアにて定まった訳があるような書きっぷりであったので、手は加えません。

  • aршином:長さの単位。手元の辞書では1アルシン=71.12cm。

  • общим:общийの造格、「一般の、共同の、全体の」などの意。「не измерить(測れない)ほどにロシアは大きい」というのが詩の主旨ですから、その長さはいわば「無限アルシン」あるわけです。そこでここでは「Аршином общим」を「アルシン全体」と理解して訳しました。

第3連、第4連は全くの意訳です(しかし半分を意訳してしまえば、それはもはや別物である、ああ、堪忍!)。直訳すればこうです。

 第3連:彼女は格別大きな体を持っている
 第4連:ロシアを信じることしかできない

 第3連は定番のу構文です。особенныйは「特別の、独特の、とくに大なる」などの意ですがособ-の部分は「個体」や「貴族」を表す語の語幹にもなるので、「他から独立したとりわけ目立つ大きさ」を表現していると思います。したがって、「一瞥でその全体を捉えきれない」という意味でカント用語の「崇高」はぴったりではないでしょうか。これまでみたように第1連、第2連の解釈とも一致します。

 第4連は「верить」の直訳:「信じる」という語をそのまま使うかどうかがわたしの美学のふるいにかけられました。というのは、次の引っ掛かりがあったからです。

  1. 「信じる」ということはどこかで「その対象がないかもしれない」という含みを持つのではないか?

  2. 第1連から第3連までの流れにおける外からロシアを理解する方法が完全に絶たれた世界観に対し、「信じる」ことが持つ意味は何か?

 1.は「верить」を辞書で引き、例文が目に入ったときに生まれたものです。例文には「верить в Бог(神を信じる)」とあり、「ははあ、父なる神と母なるロシアか」という得心がありました。そのとき、信じる対象について、ヴェイユだったかマザー・テレサだったかの信仰の話で、「全く正しく真であるものは、信じる必要がない」というようなことが述べられていたのをふと思い出しました。そういうわけでこの詩の訳に「信じる」という語を使いたくなくなりました。

 2.は、1.の直感と同時に「верить」がラテン語の「veritas」と関連のある語のように思えたことに由来します。辞書では「верить」自体に「真理」の意は見つけ出せませんでしたが、この詩の主題は間違いなくロシアの真の姿をめぐるものです。では、「真理を知る」とはどういうことか、これは完全に哲学の問題であり、『精神現象学』の序論が思い出されます。それを認識するのにその認識の手段がそれから切り離されていてはそれを真に知ったことにはならない、というあれです。つまり、「外からロシアを知ることはできない」。これはやはり第1連から第3連までで述べられたことから導かれる帰結です。とすると、我々はロシアを知るためにどうすればよいのか――そう、「内側に」入ればよいのです。この詩の作者がロシアの内側にいて、頭でも定規でもなく、「体で」それを感じていればどうでしょうか。ここに真にロシアを理解する道が残されているように思えます。そうするとなんとなく「В Россию」が「верить」の目的語、というよりは前置詞句のように見えてきます(=in Russia)。ロシアはわたしたちを外から包み込んでいるのです……。

что это хорошо

(以後、こんな具合にチュッチェフに限らず、ロシア文学に直に触れていきたい。(noteで翻訳を晒すかどうかは不明))

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