哲学、文学、精神分析などの人文学にとどまらず、数学、物理学、生物学などの分野からも種々のモチーフを持ち込む。そして、私を混迷に陥れるのが、ジル・ドゥルーズの『差異と反復』という書物である。
河出文庫で2巻。ご覧の呟きのとおり既に終章に入るが一向に話が見えてこない。あまりにも癪なので、もう一度頭から読み直すことにする。本書に限らず、咀嚼できず、消化不良の感が残る本は多々ある。普段なら、そういうものは、いったん放置し「読んだ記憶」に圧縮する。そしてその記憶が、また別の本なり経験をきっかけに突然蘇ってくる瞬間、いわば「発酵」の瞬間を待つのだが、どういうわけか今回はそうはさせないという思いがある。つまり発酵前の生地づくりをもう少し丁寧にやっておこうということなのである。
この投稿は、『差異と反復』を再読するための「試金石」を集めたものである。今私が手元に集められるそれらは、決して十分な有用性を備えているとは言えないが、必ずしも無益というわけでもあるまい。読書人としての勘である。このような目的であるから、ここに記されるものは、インターネットに流通する記号の形態を持ちこそすれ、限りなく象徴的である。つまり全く個人の用に立てられうる覚え書き以上のなにものではない。(個々の材料同士の関係は極めてで希薄であることに加え、材料の仕入れ状況に応じて改訂の可能性は常に開かれている。)
1. ドゥルーズ哲学の相貌
第5章にてカルノーの原理、エントロピーへの言及があることから、やはり大筋の方向性としての散逸を見逃すことはできない。キーターム(「反復」他)はのちの節で整理。
マルクス主義を自称するということは、マルクスの方法論をそれなりに参考にしてもよいということである。(しかし『差異と反復』に言及していないことからあくまでも参考程度に留めおく。)
2. 『差異と反復』の相貌
序章での宣言、第1章でのヘーゲルへの言及から本書は「ヘーゲル批判」としての性格を持つものであることがわかる。例えば、『精神現象学』の出発点「感覚的確信」では、個別的内容が廃棄される様子が語られる。
「いまは昼である」、しかし時間が経てば「いまは夜である」。確かに常に「いま」はあるのだが、その内容は語られると同時に(こう言ってよければ)無効化する。「いま」であれ、「ここ」であれ、認識する主体としての〈私〉であれ、そして一般名詞で言い表されるような事物であっても、感覚的な「このもの」は無限集合としての個別的事物からなる「普遍」であって、しかしそれゆえに内容を捉えることができず、「真なるものを手に入れることがない」。唯一一回的な「いまは昼である」という認識事実を捨てねばならないことに対する批判が『差異と反復』で扱われているように思える。
前節のとおりマルクス(=ヘーゲル批判者)との連関も薄ら見えているから、「マルクスによるヘーゲル批判の再現(本書の意味での「反復」?)」と捉えてみてはどうだろう。ではマルクスはどのように「ヘーゲル批判」を行うのか?
柄谷行人も「ヘーゲル批判」を「反復」する者であると同時に「マルクス批判の反復」も行っている。というわけで彼のヘーゲルあるいはマルクス読解も参考にする。
3. 『トランスクリティーク』
「差異」を超越論的な「間」と捉えるのは第5章以降の強度論のヒントになるかもしれない。あるいは、「差異」を具体的な一例として捉えるにあたり「恐慌」もヒントになりそう。
ここでは「差異」の代わりに「視差」という語がもちいられる。ここで興味深いのは、「恐慌」のカタストロフィックでありながら解決的な現象であるという性格が、『精神現象学』の序論において語られていた「絶望のみちすじ」の具体例のようにも読めることである。「差異」がヘーゲルに帰ってくる。
4. キータームなど
4.1 反復
「一般性は、どの項も他の項に置換しうる」関係のことを指しており、交換・置換可能な項の間にある関係とは、
①類似(質的)
②等価(量的)
である。反復とはこれらとは反対の置換不可能性であって、これが「特異性」と呼ばれる。
このような一般性の間の移行の中にしか「反復」は現れえない。
自然法則に反復を期待するのは誤りである。「反復を可能にするはずの法則を見いだそうという夢は、道徳法則の側に移るわけである(p.27)」ため、カントの普遍立法は反復の可能性を与えていると言える。
「反復」の最終形は終章で『ツァラトゥストラ』を以下のように読む試みとして再現されているように思える。
「第三」というのは、マルクス『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』から「反復」のプロタイプモデルを取り出し、応用したものであろう。
余談ではあるが柄谷行人は、マルクスの同書を以下のように読み、議会のrepresentation(ルプレザンタシオン)の形態を認識論の問題へ焼き直す足掛かりにしている。
4.2 力(ピュイサンス)
(ヘーゲルやニーチェも使うフレーズであるから見つけ次第、ここにまとめる。)
累乗:「一回目に、二回目、三回目を加算するというのではなく、第一回目を「n」乗するのだ。」(p.21)
「反復は、法則に反している」にもかかわらず「自然のなかに」見出されるのであればそれは、「力=累乗の名においてである」。
4.3 表象=再現前化(ルプレザンタシオン)
表象は、いわゆるカント哲学でいうところの「認識」の前にある材料と私は理解しているが、この理解だけではどうも読みが深まらない。以下、たまたま併読していた『意志と表象〜』から。
『差異と反復』の訳注にはカントの定義も引かれているがちょうどこれと一致する内容である。ついでに「概念」なる語も理解したつもりのせいで読みが滑る。『精神現象学』では次のように述べられている。
つまり「概念」とは、意識の領域にあって、未だ「実在的な知」に至っていない=「実現」を待つもののことを指している。
4.4 規定
まずはヘーゲルの用法から。
知覚において「事物」を捉えるはたらきの関係性が「規定」であり、その事物が「一」として他の事物から区別されるような否定である。また次のようにもパラフレーズされる。
ここでドゥルーズのキーフレーズ「差異」が登場。ヘーゲルの文脈との違いに注意しつつ読解すること。続いてドゥルーズ。
ここで「規定」とは述語を指している。ただしこの文脈では、「規定」の意味そのものよりも「概念」と「類似」との連関に重きがある。(「概念」は本質的な「差異」を捉え得ない、という主張に向かうため。)
主語たる現にあるこの個物は無限の規定を受け=無限個の述語を付せられてはじめて言い表しうる。したがって「無限な内包をもつ」。逆にその無限の述語に対応しうる主語=外延(=概念)はただ一つに定まる。ここで思い出されるのは基体説。
ここで述べられているのは一つのパラドクスであるが、ドゥルーズがいうように「無限な内包」はそもそもこの問題を生じ得ないのではないか。現に、有限の場合の思考実験が紹介されるが、これは語=類についての話となっている。
4.x (項目候補)
関係=比(ラポール)
裸の物理的反復
同一性
差異
異化=分化
差異化=微分化
問題
エレホンerewhon
崩潰した自我
改訂履歴
R0 2024/4/14 初回投稿
R1 2024/4/20 1節、4節追記
R2 2024/4/27 4節追記