Entwurf

哲学とは畢竟、肯定でなければならない。

私はここで私の哲学の指針を述べるつもりである。
そしてこれはある切迫した問題を解決したいと望む故に行う一種の原理探求なのである。
これはいわば私にとってのプロレゴメナ(序論)となろう。

切迫した問題とはなにか?なぜ今プロレゴメナなのか?

私の切迫した問題とは資本主義の問題である。
資本主義は、人間の究極の平等化をもたらし、
国家間の普遍闘争のゲームを抑制することに成功した。
そして、科学の協力もあり文明を”発展するもの”に育て上げている。
しかし、あらゆるところでその綻びを見せている。

このような事実にあっては当然この怪物を打倒したいと思うであろう。
私はこの問題の解決の糸口を見出すため、これまた巨大な山脈を登ってゆかねばならない、マルクスという山脈を。
まだ地図を手にしたばかりではあるが、道中にはヘーゲルという険しい峰も存在する。
経済という怪物だけでもただ者ではないのに政治・歴史・法といった強者まで山々には潜んでいるようだ。

これほど過酷ーー怪物犇めく険しい山道とあっては、
本当の登山ならとても生きて帰って来られるとは思えない。
現にマルクス主義は破滅的な運命に至ることを我々は知っている。
私がこれから登る山は道を踏み外すわけにはいかない。
故に到達点の条件のようなものを予め腹積りしておく必要があり、
そのためのプロレゴメナ(序論)なのである。

肯定とは何か?

哲学とは畢竟、肯定でなければならない。
では「肯定」とは何か?
「肯定」の意味をとらえるためにまずは否定というものについて考えてみよう。
ある命題に対し否定語を含み、否定の形を取っている反命題がある。
「Aとは〇〇である」「Aとは〇〇でない」
後者の命題は、Aの可能な述語全てのうち〇〇を含まない部分を指しているに過ぎない。
これらが事実として現在しているにせよしていないにせよ、
単語や文の組み合わせは無数に存在している。
この言葉のエーテル(ウィトゲンシュタイン流にいえば論理空間ということになるだろうか)は決して否定という形式で超え出る事はできない。
私がここで言いたい「肯定」とは、単なる正命題ではなく”あるもの”の存在を根拠づけるような原理から出発・再構成していく思索である。
この”あるもの”が「言葉」の場合であるのが先の議論であるし、
例えば「形而上学」とすればそれはちょうどカントの批判哲学である。

哲学とは畢竟、肯定でなければならない。
では何でもかんでも所与のもを肯定し続ければ良いのだろうか?ーー否。それでは無思考である。人は決して無思考(ここでいう思考とは別に論理的なものに留まらない、身体を通じて得る思考ーー感覚、判断力をも包括する広義なものとして捉えておきたい)であってはならない、それゆえ私は私の指針に「畢竟」という語を用いるのである。
私は哲学の途上にあっては懐疑や弁証法などの否定を交える手法を利用する事はむしろ重要だと考える。
カントを独断論の微睡から目覚めさせたもの、それはデーヴィド・ヒュームの懐疑であったことを自身の口から告白している。
形而上学的命題(正命題)に対する懐疑論からの反論(反命題)、これら二つの命題は共に証明し損ねるのだが、この時彼は綜合的判断という従来の矛盾律に従う判断ーー即ち分析的判断ーーとは異なる原理に基づく判断形式を見い出すことに成功する。
してみればこの綜合的判断というものは、形而上学を構成するだけでなく、自然科学(ニュートン力学)や数学(ユークリッド幾何学)の原理となっていることにも彼は気づく。
批判哲学においても否定的手法というのは有効に機能しており、複雑化した問題をむしろ解きほぐすような役割を果たしているようにも思える。
批判哲学に後続する新たな哲学を構想のためにも、この構造に対しては意識的でなければならない。

哲学とは畢竟、肯定でなければならない。
私がこのように言う時、対置されているのは懐疑論や独断論である。
懐疑論は先の議論で手法としては有効であることを示した。しかし、私がここで唱えたいのは「着地点としての懐疑論」に対する批判である。
「世界は存在しない」や「五蘊皆空」などの否定的命題は客観性に欠けるし、次なる議論の出発点として、あまりにも脆弱である。
これらの原理を導く懐疑論者たちの証明は、(彼らが否定する)「神」や「物自体」の存在証明と同様、普遍的妥当性は持ち得ないのである。
それならば、現に存在するもの(自己、他者、文学、美術、科学、倫理…)をなるべく肯定できる原理を選択することが重要ではないだろうか。
かつてソクラテスは全くあらぬ嫌疑をかけられ裁判で死刑を言い渡された。彼は刑の執行までに、法の幻想性を訴え、脱獄することもできたであろうが、決してそうはしなかった。
市民にとっての法に従うことを尊重したのである。
ここには自己と他者を等置する客観性ーーあるいは主客の対称性と言い換えても良いかもしれないーーが一つの美しい行動として結実している。

否定するのは簡単である。
対象を観念化し「これは幻想だ」と言ってしまえば良いのだから。
しかし、これではあまりにも無力である。
否定さるべきものが現には全く破壊されていないからである。
同様に私に切迫している問題ーー資本主義のアポリアも、これを幻想化することで主観的に解決する事はやはり容易い。
しかし、この誘惑を断ち切ること、これこそが産婆師ソクラテスの遺言である。

哲学とは畢竟、肯定でなければならない。
懐疑も批判も抱えて私は更に先へ行きたい。
私はこの哲学を”設計哲学”と呼んでもいいのかもしれない。
それは物理学や工学の技術を援用しながら一個の機械を作り上げるように、
先人の知見を活用しながら批判哲学よりもさらに積極的に世界を建設するものである。

哲学。それは空高く飛翔するするための営みだと固く信じていたのだが、どうやらこのざらざらした大地を自分の足で力強く踏みしめることのようである。

私はこれからマルクスの山を登る。
ある巨大な怪物に立ち向かうために。


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