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自分年表

社会人以前(0-22歳)

1971年 1月17日、大阪市都島で産まれる。日本製紙(当時:十條製紙)の社宅で育つ。2歳上の兄と父母の4人家族。母親は専業主婦。
父の転勤で熊本県八代市に引っ越し。
1975年 社宅暮らし、太田郷幼稚園に入る。早生まれだったので母親が心配して、年中から入園することになったせいか、なじめず。
1976年 太田郷小学校入学、なじめず。なぜか陸上クラブに入って放課後走っていた記憶がある、水泳もほんの少しした。
1977年 2年生進級時に、父の転勤で東京都武蔵野市に引っ越し。社宅暮らし、大野田小学校転入。東京の学校にまったくなじめず。切手を少し集めていたが、2年ほどでやめる。
1978年 3年生進級時に、父の転勤で名古屋市千種区に引っ越し。団地暮らし、宮根小学校転入。名古屋の学校はなじめた、転勤族が多かったからだろうか?3年間団地暮らし。読書や釣りや電気工作が趣味になる。読書以外の趣味は中学生には終わる。4年生頃から剣道を始める。この頃から学校の成績がよいことが分かる、スポーツはできないし人望もない自分だけど、勉強だけは認められて助かる。父親は九大工学部卒で、母親は朝倉商業高校卒、母親は勉強しろとうるさかったが、父親はいつも「勉強なんかせんでいいから好きなことをやれ」と言っていた。
小学生の頃は、大きくなったら無人島で灯台の番人をして、ひっそり暮らしたいと思っていた。住んでいる地域によって野球チームに入らさせたりしたが、本当にキライだった。団体競技と球技はムリだった、何が楽しいのかサッパリわからなかった。
この頃から、名古屋→福岡を新幹線に一人で乗って父の実家に行ったり、父の同僚で釧路の工場に勤務している人を頼って一人で北海道に行ったりする。他人や親戚の家に泊まるのが苦ではなく旅行するのが好きだった。平日下校後、バスに乗って一人でこっそり栄に行ったりもしていた。
1982年 兄が高校生になる時期が近づくと、父の転勤に伴った引っ越しは難しくなるので、6年生進級時に、福岡県太宰府市の父親の実家に母と兄弟で引っ越しをして父方の祖父母と同居をする。父は単身赴任。母親のグチを聞くのが自分の仕事だと思って就職して家を出るまでおとなしく聞いていた。太宰府小学校には全くなじめず。プロレスにはまる、真剣勝負だと思っていたので。
太宰府天満宮のすぐ隣で学生時代を過ごしたことは、宗教的な面で影響を受けたと思われる。

1983年 太宰府中学校入学、学校はぜんぜんなじめず。全然うまくならなかったが、一応剣道部を続けて中学で剣道はやめる。祖母永眠。
中学生の頃からマイコンを使ってBASICでゲームのプログラミングをして雑誌に送る、ということを始めるが、高校に入るとやめる。この頃はゲーム会社に入って、ゲームのプログラマーになりたいと思っていた。
ぶらぶら出歩くのがとにかく大好きで、毎週末、太宰府〜福岡17kmを自転車で往復していた。友達に一人だけ取っ組み合いをしてくれる人がいて、たまに機会があればグラップリングのようなことをしてとても楽しいと思っていた。

1986年 筑紫丘高校入学。なぜか応援団に無理やり入れられる。なにか運動はしたかったので、2年生頃からバドミントン部に入る、これも大して上手くはならなかった。男子クラスがある学校で、1年時と3年時は男子クラスで過ごす。同学年の女子としゃべった延べ時間は3年間で30分もないと思う。学校はほぼすべてキライだったが、高校だけはなじめた。
高校時代はゲームセンター通い。カンフーが最強だと思い、毎晩「これを観ていたら強くなるはずだ」と思ってジャッキー・チェンやブルース・リーのアクションシーンをVHSビデオで繰り返し見る。近くの剛柔流空手教室にも高校時代は通うが、全然上達は感じなかった。剣道も空手も勝敗は運だと思っていた。高校になってようやくプロレスは八百長だと認識して大嫌いになった。柔道の授業は大好きで結構相手を投げてたし、寝技で負けることはほぼなかった。
理系に行くか文系に行くか、の選択に対しては、文系の宗教とか心理学とか哲学とか歴史などに断然興味はあったがそれは自分で勉強すればいいし、そっちに行くと地に足のついていない人間になりそうだったのと、父親が技術者だった影響があったのか理系に進む。

1989年 九州大学工学部資源工学科入学。柔道部に入る。寝技の練習で「やったー!俺はこういうことがしたかったんだ!!」と感じる。夏は自転車で九州一周。父親から「船井幸雄の人間の研究」を渡されて、その系統にはまる。柔道を始めてからゲームセンター通いはなくなる。大学時代は興味のある本を図書館から借りて山のように読む。真剣勝負だと触れ込んでいたUWFを生で見て、八百長だと知ってその方面を完全にキライになる。本当は北海道大学に行きたかったが、家庭の事情で九大に進む。柔道部にはなじんだが、大学のクラスにはまったくなじめず。ちなみに資源工学科を選んだ理由は、旅行が好きだったので、人生で一回くらいは南極や砂漠に住んでみたかったから(現在のところ未達成)。
1990年 夏に北海道を原付きで回る。中井君(当時北大柔道部、現柔術連盟会長)は同期で、家に泊めてもらったりする。
1991年 柔道部七大学戦優勝、先輩の引退に伴い副主将になる。夏に北海道を原付きで回る。瞑想を始める。
1992年 柔道部七大学戦2位。夏に北海道を原付きで回る。帰ってきたら大学院試の申込期限が過ぎていたので、留年して次の年も試合に出ることにする。
1993年 親しかった同期の柔道部元主将が急病で早逝。柔道部七大学戦優勝。冬に北海道を回る。卒業前にインドに初海外旅行、マザーテレサの施設でボランティアをする。
就職は京セラにする。教授推薦で入れる会社のリストにあったのと、稲盛さんや京セラフィロソフィーのことは知っていて、厳しい会社でバリバリ仕事をした方が成長できていいだろう、と思っていた。会社訪問や面接で「なんで他の会社は時間あたり採算性をとらないんですか?」「京セラフィロソフィーに共感したので御社を志望します」と言うと、相手がギョッとした顔をするので、なんでだろう?と思っていた。経営コンサルタントやシステムエンジニアになりたい気持ちもあったが、当時は得体がしれない業界という雰囲気で、そちらに進むことはできなかった。今となっては少し後悔するところではある。ちなみに、当時はバブルがはじけてすぐの頃、就職氷河期初期。

会社員時代(23ー27歳)

1994年 京セラ入社。鹿児島国分工場半導体部品事業部で開発に従事。ペーパーテストが得意なだけの人間だったので、仕事ができなくて大変。
寝技をする場所はなかったので、月に1回は実家に帰るついでに九大で練習。あとは樟南高校のレスリング部や極真空手道場や会社のバトミントン部で運動は続ける、パラグライダーも時々やる、九州南部の山はほとんど登る。出張で関西に行ったら京大柔道部に、東京に行ったら中井君の所で練習をして泊めてもらう。
1995年 かなり働いて頭が良くなった気がしたので、なんらかの分野で独立しようと年末に決める(ちなみに、京セラの関連部署としてアメリカのサンノゼの工場があって、そこで働ければ京セラに居続けようと思っていた。とにかく外国に住みたいとも思っていたので)。自分は波瀾万丈な生活を送るんだろうとなんとなく予想していた。GWにパック旅行:ロンドン、ローマ、パリ。夏にパック旅行:中国。
1996年 本が大好きなので本屋を始めようと思うが、将来の見通しの厳しさに断念。何をするか考え続ける。GWに一人でニュージーランドでスカイダイビング。夏に沖縄(これで日本東西南北端(納沙布岬,与那国島,波照間島,宗谷岬)を制覇)
1997年 GWに友人とサンフランシスコ→ヨセミテ(ヨセミテ最高)→グランドキャニオン→ロス。夏に一人でドイツ、スイス。富士登山。
1998年 鍼灸師になろうと思いつき、鍼灸学校に合格したので母親の大反対を押し切り、退職を届け出る。柔術がはやり始めたので「薩摩寝技会」を作って、大会も開く。

鍼灸師時代(28-32歳)

1999年 2月に退職。武蔵野市に引っ越し。東京医療専門学校鍼灸マッサージ科入学。武蔵野体育館でねわざワールド設立。白帯カーニバル開催(-2019)。退職→入学間の一ヶ月、西表島で人生唯一のリゾートアルバイター経験(YHみどり荘)。バリ旅行、雲取山登山。
2000年 身体均整法学園入学。東洋はり医学会入会。年末に柔術紫帯。
2001年 調布に引っ越し。武蔵野市で「おおが身体均整院」開院。
2002年 東京医療専門学校卒業。武蔵野市で「おおがはりきゅう院」開院。年末に柔術茶帯。ねわざワールド大分(現:BASIS)が初のグループ団体として加入。
2003年 2月調布に治療所兼柔術道場の「大賀道場」設立。年末に黒帯になったので、競技者として世界一を目指すべく柔術に専念することに決める。

競技者時代(33-39歳)

2004年 ブラジルでマスターシニアインターナショナル一回戦負け。京都大学長谷川繁夫記念寝技研鑽会に助手として参加(-2015年)。
2005年 サムギョプサル「とんちゃん」にはまる。ブラジルでマスターシニアインターナショナル2位、国際大会で初の日本人黒帯入賞。初動負荷トレーニング開始(-2006)
2006年 ブラジルでマスターシニアインターナショナル一回戦負け。
2007年 ブラジルでマスターシニアインターナショナル優勝、国際大会で初の日本人黒帯優勝。ロサンゼルでムンジアル3位。祖父永眠96歳。長女誕生、もともと乳幼児が本当に大好きで、子育てをしたくて結婚したので、子育てにかなりの時間とエネルギーを費やす。
2009年 ロサンゼルでムンジアル一回戦負け。自分の今の商売について色々悩むところがあったので一人でグアムで考えて自分なりに納得する答えを得る。
2010年 ロサンゼルでムンジアル一回戦負け。次女誕生。選手引退。インストラクターとして世界一を目指す。

引退後(40歳-)

2011年 調布市市議会議員選挙立候補、落選。
2012年 「寝技の学校」引き込み編、抑え込み編出版。副鼻腔炎手術。
2013年 海外進出プロジェクト開始(-2020)。ガロカルナバル、第一回ブラジリアン柔術学生選手権など開催。5年で紫帯マニュアル作成。格闘技バブル崩壊、売上低迷期。大前研一のアタッカーズビジネススクールe-ABS受講。
2014年 「寝技の学校」絞め技編出版。七大学柔道フランス派遣同行。
2015年 「大賀道場 千代田」設立。ロサンゼルス視察。アメリカンクラブで柔術クラス開講(-2016)
2016年 「寝技の学校」関節技編出版。「大賀道場 渋谷」設立(-2017)。ニューヨーク視察。
2017年 シンガポール視察。小学校PTA会長。
2018年 「大賀道場 千代田」引っ越し。
2019年 ねわざワールド20周年セミナーツアー。ハノイ視察。父永眠80歳。
2020年 コロナ、本当にびっくりした。
2021年 「大賀道場 新宿」設立。
2022年 「柔術上達論」出版。
2024年 3月に足に少ししびれが出たのを機に、身体を大事にしたいので、基本的にスパーリングを止める。同時期に初動負荷トレーニング再開。「新装改訂版 寝技の学校 上・下巻」「世界の頂点を極める(監修)」出版。

影響を受けた本
高校時代:若草物語*(オルコット)。赤毛のアン*(モンゴメリ)。
大学時代:母の肖像*、戦う天使*(パール・バック)。氷点*(三浦綾子)。成功の実現(中村天風)。人間の研究(船井幸雄)。
社会人時代:オルタナティブ・ウェイ(野田俊作)。80対20の法則(リチャード・コッチ)。
宗教がテーマになっている本(*)が多いですね、我ながらびっくり。

反対されたり、自分も心配だったけど、やってよかった決断
1992年 柔道部七大学戦2位。夏に北海道を原付きで回る。帰ってきたら大学院試の申込期限が過ぎていたので、留年して次の年も試合に出ることにする。
1998年 鍼灸師になろうと思いつき、鍼灸学校に合格したので母親の大反対を押し切り、退職を届け出る。
2015年 「大賀道場 千代田」設立

自分としては当たり前だけど、普通ではないのだろうと思われる決断
1993年
 就職は京セラにする。厳しい会社でバリバリ仕事をした方が成長できていいだろう、と思っていた。
1995年 かなり働いて頭が良くなった気がしたので、なんらかの分野で独立しようと年末に決める。
1998年 柔術がはやり始めたので「薩摩寝技会」を作って、大会も開く。
1999年 武蔵野体育館でねわざワールド設立。白帯カーニバル開催(-2019)
2003年 黒帯になったので、競技者として世界一を目指すべく柔術に専念することに決める。
2007年 長女誕生、もともと乳幼児が本当に大好きで、子育てをしたくて結婚したので、子育てにかなりの時間とエネルギーを費やす。
2010年 選手引退。インストラクターとして世界一を目指す。
2012年 「寝技の学校」引き込み編、抑え込み編出版。←補足:僕は本が好きだったからか、文章を書くのが好きだったからか「自分も本を書きたいし書ける」と当たり前のように思っていた。普通はなかなかそうは思えないらしい。


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