【通信制大学での学び 第8回】「わからなさ」にまみれる
また見て頂きありがとうございます。
GWになりましたがまだまだパンデミックな日々が続いています。どうぞお身体に気を付けてお越しください。今回は大学の学習での「わからない…」についてです。
私が大学に入学して学習を始めた時は、テキストを読むにしても動画を観るにしても、新しい物事に触れる面白さが多くて、苦労というより楽しさが先にきていました。「あぁ~そうだったのか~」とか「全然知らなかったわぁ、それ」とか。そうインプットは楽しんですよ、すごく。でも学んだ結果をレポートにするアウトプット作業が大変でした。学んだ内容をよく理解していないことが原因ですが、設問に対してどう書いていいかわからない。テキストで著者が述べていることがわからない。出題者の意図がわからない。なので設問の意味がテキストから探しきれない。仕事やらプライベートやらのストレスで逆流性食道炎を患った時は、あまりのわからなさと腹痛が重なり悶絶したこともありました。しかし・・・
「わからなさ」にまみれる
少し長くなりますが『アートとしての論述入門』で大辻都先生はこう述べられています
しかし近頃の社会では、何でもすぐに答えをだすことがもとめられすぎて、逆にじっくりと問うことが難しくなっているかもしれません。私は社会人学生と十八歳の学生の両方に接していますが、社会人は――時間に追われ、その貴重さを意識しているがゆえでしょうが――短時間で何かの答えや有用な知識を欲しがる傾向があるように感じています。ものごとの複雑さや「わからない」という状態に耐えることができるのはむしろ十八歳の若者のほうです。職場や日常では、もちろん迅速に解決し答えを出すことが必要な場面は多くありますが、だから学びの場では、簡単に答えを出さずに長く問い続けること、「わからなさ」にまみれることの楽しみとその後の果実を味わってほしいと思います。(P13~P14)
若い人ならば「わからない」は許されても、大人になって、社会人になって、「わからない」といことは恥ずかしいことと思い込んでいたと思います。職場では何かと「そんなことも知らないの?」とか言われたり、何よりわからない事柄で問題が発生すれば早い解決が求められます。だから「要は〇〇なんだ」とか「取り急ぎこうしなければ」とか、拙速な考えで動くこともありました。しかし学生はわからないことがあって当たり前。だってそれをわかるようになるため入学したのですから。社会人であっても学生という立場だからこそ「長く問い続けること」「わからなさにまみれること」が許される。これが学生の特権じゃないかと思います
自ら問うこと
その「わからなさ」への理解も、大学では全部は教えてくれません。理解への取っ掛かりはテキストや動画で教えてくれますが、自分で問いを立て、自分で調べ答えを得ることが大学での学びです。それが問い(わからなさ)への理解を深めることだと思います。しかしじっくり取り組むべきなのでしょうが、履修スケジュールもありますからあまりのんびりしてはいられませんんし、全てが理解できる訳ではありません。そこで私はこの点数であれば大体科目を理解したことになるのではと、各科目のレポートでB75点を取ることを目標にしました。ご自分なりの「わからない」のへ取り組みを考えてみてください。
「わからない」をこじらせると
しかし「わからない」をこじらせると、後々まで引きずってしまいます。私の場合はカントです。芸教在学中カントの哲学について学びました。今家にあるカント関連や記述のある本は写真の9冊。それ以外でも2~3冊図書館から借りたと思います。
テキスト『悪について』が読んでも読んでもわからなくて・・・。カントに、著者の中島義道氏に翻弄されて終わり、提出したレポートはもう(今でも)読み返したくないという状態になりました。ですがその後別の科目で8冊のブックリストの中からカントの『永遠平和のために』を選んでしまい、またカントの沼に自らはまっていくことに・・・。そして卒業後もカント関連の本を見つけると思わず買ってしまいます。きっと未だにカントの哲学がわかっていないのでしょう。厄介なこじらせ方をしたものです(笑)