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許し
「なぜあの時、私はああしたのだろう」という小学生の時の記憶がいくつかある。
その一つがこれだ。
小学六年生だった私は、おそらく発達障害であったクラスの男子「たかを」の隣の席になった。
彼は身体が少し不自由だった。喋りはやや聞き取りにくく、漢字を読むのに苦労していた。
でも人柄がよく、皆に好かれていたし、イジられる程度はあったかも知れないが、私の知る限りではいじめられてはいなかった。
ある日の国語の授業中のことだった。音読が始まった。たかをにも回ってくる。私は良かれと思い、たかをの教科書の漢字にルビを振った。たかをの番がきた。たかをはいつもよりスムーズに教科書を読んだ。
それを不思議に思った40代男性教師は私に「君がやったのか?」と聞いてきた。私は素直に「はい」と答えた。すると教師はなんとも言えない表情をした。
私はその教師の表情が何を意味しているのか分からず、こう考えた。
たかをの学習の為には、ルビを振ってはいけなかったのではないか?
たかをに逆に恥をかかせたのではないか?
しかし、何十年経っても、その時の教師の表情の意味はわからなかった。
ついにその答えがわかった。
「私がした事は当時の私がした最善だった」と。
つまり、教師の表情にはなんの意味もない。
あったとしても私には関係ない。
私のした事は当時の私ができるベストだったからだ。
長年私を苦しめたこの教師の表情はまだ他にもあったが、今ならわかる。意味なんてないのだ。
もし、今後同じ事が起きたら、ただ聞けばいい。「なんか文句あるんか?」と(笑)
それは嘘だが、この教師がきっかけで人の評価を気にしていく自分が始まった。
まぁ、もっと前から気にしてたんだろうけどね。
そして、今わかるのは、他人は一切関係ないということだ。
自分の言動は全て自分に責任がある。
それをわかった上で何でもすればいい。
たかをの教科書にルビを振った私は素晴らしい。
他にも過去しでかした私の言動全て、間違っている事も含めて最善だった。
やっと自分の過去全てを許す事が出来た今の私から小学六年生の私へ言ってあげたい。
「よかったんだんだよ!それで!」と。