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イカズゴケ苔 ③

翌朝五時。呼び鈴がなった。

扉を開けると龍児が立っていた。

龍児の顔を見るまで、やはりわたしは彼の顔を思い出せずにいたし、この瞬間にも忘れてしまいそうだった。彼はわざと外見をぼんやりさせて、周囲との境界を曖昧にしているように思えた。 


 龍児は大きなリュックを背負っており、あちこちから鍋の柄などが飛び出していた。夫もイカズゴケ苔様も、まだ眠っている時間だった。わたしは彼を台所へ案内した。龍児はリュックから荷物を取り出し、作業台に並べていった。

すべての荷物を取り出すと、わたしを台所から追い出し「わたしが料理を作っているところを決して覗いていけません」と、恩返し好きの鶴みたいなことをいった。


 いつもならこの時間に朝食の準備をはじめるのだが、食事作りを龍児に任せてしまったため手持ち無沙汰になったわたしは、なぜだか急に歌いたいという衝動に駆られた。


 自室の窓を開けた。昨日から降り続いていた雪は止んでいて、昇りはじめた朝日が残雪に彩られた通りを優しく撫でた。家の前にはすでに参拝者が数人並んでいた。朝の空気をめいっぱい吸い込むと、わたしの喉からずんずんと歌が流れ出した。


「いかずご~けご~け。ごけ!
いかずご~けご~けを~ひとくち~でもたべた~な~りゃあ。
あたしも~あん~た~も、まるでゆ~め~のここ~ち~。
ごけごけ!タイ!ごけごけ!ずん!」


それは盆踊りが似合う民謡調の歌だった。わたしは少しづつ歌詞を変え、イカズゴケ苔音頭を歌い続けた。


やがて参拝者らが輪になって、渦を巻くように歌に合わせて踊りはじめた。雪の残る大地に増殖する精霊を見ているようだった。

「朝食の準備が整いましてよ」


龍児の声が聞こえた。
わたしは彼の作った朝食をイカズゴケ苔様の前に並べた。


「顔が命の男だらけ、でございます」


わたしがそうメニューを説明する。


「カオマンガイですね」


 イカズゴケ苔様は微笑みを浮かべてそういった。わたしと夫も、鶏スープで炊いたご飯にゆで鶏をのせたものを食べた。

これまでわたしたちはタイ料理が苦手だったから、いつもイカズゴケ苔様の食事とは別のものを用意していたのに、龍児の作るタイ料理はなんの抵抗もなく食べることができた。彼の料理を食べた後は、すこぶる気分がよくなり、あちらこちらに宿っている精霊を見ることができた。


 それからというもの龍児は毎朝五時に家に来て、三度の食事を作り、夜の七時に帰るようになった。食事作りの合間には好きに休憩を取ってもらった。

休憩中、彼は外へ出かけて数時間戻らないこともあれば、台所から一歩も外に出ないこともあった。いずれにせよ食事の時間が遅れることは一度もなく、彼は立派な仕事人だった。


一方で龍児はイカズゴケ苔様にも夫にも会おうとはしなかった。よほどうまく避けているのか、家の中で彼らにばったり遭遇することもないようだった。


夫はまだしも、イカズゴケ苔様に会いたがらない人間など、これまで見たことがなかったから新鮮だった。


「イカズゴケ苔様に会わせましょうか?」


「イカズゴケ苔欲しいでしょ?」


 他の人なら泣いて喜ぶこのフレーズを、何度となく龍児に囁いてみたが無駄だった。彼はなんの関心も示さなかった。

やがてわたしは彼をイカズゴケ苔様に引き合わすことをあきらめ、代わりに隙あらば、彼に様々な質問を投げかけるようになった。この男についていろいろ知りたくなったのだ。彼についてわたしは、いまだに名前とタイ料理の店をやっていたこと以外、なにも知らなかった。


しかし龍児はいつものらりくらりとわたしの質問をかわすので、結局、わたしは彼と食事作りに関する必要最低限の話しかできないでいた。


 彼のことをもっと知りたいという思いが募るわたしに反し、夫とイカズゴケ苔様は龍児のことを気にしていなかった。三度の食事を彼が作っていることは知っているはずなのに、彼のことが話題に上ることすらないのだった。彼らにとって龍児は、窓を開ければ入り込む風のような存在なのかもしれない。


 全国イカズゴケ苔様ランキングで一位に輝いたという知らせが入ったのは、龍児がイカズゴケ苔様の食事を作るようになってから半年ほどが経った頃だった。


 なにを基準に順位付けしているのかは謎だった。


イカズゴケ苔の効用なのか、イカズゴケ苔様の美しさなのか、あるいは立地や社殿に関わることなのか、なんの説明もされなかったせいか、わたしはその知らせを聞いてもはしゃぐことなく、むしろ不愉快な気分になってしまった。

そもそも神様にランキングを付けること自体が、失礼なことに思えた。


けれども、もしもその順位がイカズゴケ苔にだけ焦点を当てたものだとしたならば、近頃の我がイカズゴケ苔様の苔は、以前とは比べ物にならないほど苔むして、この国独自の美意識である侘び寂びを醸しだしているのも事実だった。


 龍児の料理を食べる以外に、特段これまでと変わったことをしていないので、やはりこの変化は彼の料理のおかげなのだろう。


 龍児の料理には、なにか秘密が隠されているように思えた。もとより作っているところを見てはいけないと言われれば、ますます見たくなるのが人間の性。振り向いてはいけない。開けてはいけない。そんな風に禁じられても、古今東西を問わず、人だけでなく神までもが禁忌を破ってきたものだ。


 わたしはもう我慢できなかった。彼が鼻や口、はたまたお尻から食材を取り出していようが構いはしない。


翌朝、ついにわたしは禁忌をおかす。


台所の扉をそっと開け、中を覗く。


龍児は真面目な顔付きで料理している。変わったところはなにもない。当てが外れた気がした。わたしはこの密室の中で、秘儀が行われていることを期待していたのかもしれない。


ところが、その場を立ち去ろうと扉に手を掛けた途端、彼の不可解な動きを目撃してしまう。自分の胸が高鳴っていくのが感じられた。息を殺してちょっとしたしぐさも見逃さないようにした。


龍児は着ていたシャツを脱ぎランニング姿になったならば、片手にハサミを持ち、もう片方の腕を上げ、その脇にあるものを切り、鍋の中に加えていったのだ。わたしは驚きのあまり声を上げそうになった。


龍児の脇には真っ赤なイカズゴケ苔が生えていた。


わたしは何が起こったのか理解できず、扉を閉めることも忘れ、自室に戻った。


 まるで何もなかったかのように、わたしは窓を開け、イカズゴケ苔音頭を歌った。もちろん歌いながらも、彼はどうやってイカズゴケ苔が生えていることを隠し通せたのだろうか、なぜ初潮を迎えた娘にしか生えないイカズゴケ苔が彼の脇に着床したのかなどと様々な疑問が頭に浮かぶが、そうしている最中にも、やはり龍児の姿形が思い出せず、ぼんやりと霧がかかった人影が漂っているだけだった。


 歌い終わっても龍児から朝食が出来たという知らせはなかった。嫌な予感がした。階段を下り台所の扉の前に立つ。扉はきっちり閉まっている。ノックしてみる。


 返事はない。


「開けますよ。開けますからね」


 念を押して扉を開けたが、そこに龍児の姿はなかった。もしかして、とイカズゴケ苔の間も確認するが、彼はいない。その時、部屋に置かれたイカズゴケ苔様が眠るベッドから布団がずり落ちていることに気が付いた。布団を直そうとベッドに近づいてみたところ、そこには眠っているはずのイカズゴケ苔様の姿はなく。


 刹那わたしは裸足のまま外へ飛び出した。列をなす参拝者らを押しのけ、通りへ出る。彼らの姿はどこにもない。わたしは近所を走り回る。どこかに隠れているかもしれないとあらゆる場所を探す。屋根の上、電柱の影、側溝の中も確認する。参拝者や道を行き交う人にも彼らの姿を見なかったかと尋ねる。


誰も知らない。どこにもいない。
商店街まで走る。かつて龍児の店があった場所も確認する。あの店は今ではお好み焼き屋に変わっていた。


わたしは再び走り出す。


行く当てもなく走る。走る。
真夏の威勢のいい太陽が、わたしを照らす。
走る。走る。
汗をまとい走る。走る。


走るにつれ、わたしの心は晴れ晴れしてくる。両手を上げ下げし、鳥のように羽ばたく。


羽ばたけ!駒子!
羽ばたけ!龍児!


性を変え、姿を変えても構わない。そんな些細な事はどうでもいい。生を存分に味わって、龍子(たつこ)として駒児(こまじ)として再び生きろ!
わたしは羽ばたき、そう願う。


羽ばたけ!わたし!
このままタイまで飛んでいこう。そこはここの夏より暑いだろうか?


羽ばたけ!わたし!
すべてをさらけ出してしまう太陽を全身に浴び、わたしはこの地を飛び立った。

(完)

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