イカズゴケ苔 ①
イカズゴケ苔
いかずごけごけ【イカズゴケ苔】
コケ科
初潮を迎えた娘の脇に発生する苔。
摂取すると多幸感や開放感をもたらし、幻覚・興奮を来す。
初潮を迎えた娘のためにお赤飯を蒸している最中、悲鳴が聞こえてきたので慌てて駆けつけてみたならば、駒子が風呂場の鏡に両脇を映したまま、呆然と立ち尽くしていた。
駒子の脇に、初々しい緑の苔が遠慮がちに生えているのを確認するやいなや、母親であるわたしは、相反する二つの思いを抱き、つまりは石からしみだす油みたいな同僚のいるクリーニング店でのパートを辞められるという喜びと、娘が嫁にいけなくなるという憂いが同時に押し寄せてきたのでした。
けれども駒子の目に涙が浮かんでいるのに気づいてしまうと、ここはやはり憂いに集中すべきだと思い直し、眉を八の字にして娘の肩に手を置いた。
駒子に温かい牛乳を飲ませ、ベッドに寝かせた。台所に戻ると、蒸し上がったばかりのお赤飯を一つまみ口に入れ、月の力に満ち満ちた娘の初潮とイカズゴケ苔発生を一人祝う。そんなわたしの両目には、窓の向こうの月明かりに舞う桜の花びらが映っていた。
翌朝、上階からの物音で目覚めた。安普請の家なので、ちょっとした物音でも家中に響く。音は娘の部屋から聞こえていた。胸騒ぎを覚え急いで階段を上り、扉を開けてみたならば、駒子が、転がる女になっていた。
勉強机の上には、ことわざ辞典が開いたまま置いてあり、マーカーで線引きされたことわざは『転がる石には苔が生えぬ』。
わたしは転がる駒子を黙って見守った。狭い部屋の中で転がる娘は、壁やベッドや本棚などあらゆる物にぶつかっているのに、決して転がることを止めず、その後も小一時間転がり続け、わたしの足にぶつかった途端、ようやく停止した。
カラダの丸まりをほどき伸びをした駒子が、わたしに向かって両腕を上げた。娘の両脇を確認したものの、そこには鈍(にび)色(いろ)のイカズゴケ苔が、しっかり根付いているのでした。
「転がる娘にも苔は生える」
わたしはそういうと、そっとその場を立ち去った。
そう、現実は受け入れなければならず、駒子にはそうするための時間が必要だった。娘を一人家に残し、わたしは図書館にいき、イカズゴケ苔について調べてみたところ、日本在来の植物であると思っていたイカズゴケ苔が、実は帰化植物で、百年程前に東南アジアの商人から持ち込まれたものだと知った。
刻々と色を変えるこの苔を、当時の盆栽愛好家らが珍しがって手に入れたが、イカズゴケ苔は日本の地ではうまく育たなかったため放置された。
しかしある愛好家の娘が、庭の隅に捨て置かれていたイカズゴケ苔を、面白半分に自分の脇にのせて遊んでいたところ、そのまま根付いてしまった。根付いた苔から飛び出した胞子は、風にのり気ままに日本中を旅し、なぜか初潮を迎えた娘たちの脇に生えるようになった。
本来の生育地では野山に生えるイカズゴケ苔が、なぜ日本ではうら若き娘の脇にしか着床しないのだろうかと、植物学者たちは首を捻ったが、理由は分からぬまま現在に至る。
当時から脇にコケを生やした娘を嫁にしたがる者はおらず、そうした娘たちは生涯独り身でいることを余儀なくされた。しかしどの時代にも好き者はいるものである。そうした娘を好み、脇に生えた苔を舐めた男がいた。
するとその男はたちまち気分が高揚し、万能感に満ちて神を見たと触れ回ったものだから、それを聞いたまた別の好き者が娘の苔を舐めたところ、やはり同じ体験をしたため、その噂はますます広まり、やがて人々はそうした娘たちを神として祀るようになった。
そして。
神とされた娘たちは、いよいよ嫁にはいけなくなった。いくら好き者でも、神と結婚するなどというそんな畏れ多いことのできる男はいなかった。
人々は娘の脇に生えた苔のことを、イカズゴケ苔と呼び崇めた。誰もがイカズゴケ苔を欲しがった。
苔は合法であるのだし、依存性や害がないうえに、多幸感を味わえて、美しい幻影を見ることができる。こんな素敵な物質は、他にはない。今も昔も。
図書館からの帰り道、今後の駒子の人生について思いを巡らせた。イカズゴケ苔が生えたという噂は、どういうわけだか、あっという間に広まってしまうものだ。
しかしながら、今のところ駒子が自分から誰かに告白することもないだろうし、わたしもこのことを胸の内だけに秘めている。夫にだって話してはいない。
駒子とわたし以外、誰も知らない。誰も知らないはず。内密に。内密にと、抜き足差し足で家に辿り着いたならば、玄関先に金の玉座が置かれていた。
これが噂に聞くイカズゴケ苔が生えた娘に国から贈られる金の玉座。
わたしは周囲を見回して誰にも見られていないのを確認すると、玉座を家の中に入れるために玄関の扉を開けた。するとそこには仕事に行っていたはずの夫が満面の笑みで立っていて、「会社を退職してきたよ」と朗らかにいった。
彼を蹴とばしてやろうかと思ったけれど、ひとまず今は玉座を家の中に入れるほうが急がれる。わたしたちは玉座をリビングに運び込んだ。玉座は我が家にはそぐわず、安物の家具に囲まれながら、スノッブに輝いていた。
しばらくすると、夫が玉座に座り部屋の中をぐるりと眺めた後に、白目になり、まるで神託を受けたようにしゃべりはじめた。
「名を駒子と申すわたくしの娘は、本日よりイガズゴケ苔の神として、ここに鎮座することに相成り候。よってこの部屋を『イカズゴケ苔の間』と、また娘のことは『イカズゴケ苔様』とお呼びするよぅに~」
ついにわたしは夫に蹴りをいれ、玉座から引きずり下ろし、馬乗りになって彼の残り少ない髪の毛を引っこ抜いていたところ、後ろから駒子の声が聞こえてきた。
「おやめください。お父様、お母様。わたくしは本日よりイカズゴケ苔と名を改め、人々のために尽力いたします」
自分の娘であったはずの駒子が、天(てん)上人(じょうびと)となり手の届かないところへいってしまう気がしたものの、見えないものに導かれるように、わたしと夫は後光を放つ駒子の前に跪(ひざまず)き、口を開けた。駒子が腕を上げ、脇に生えた金の苔をつまみ取り、わたしたちの口に入れた。
たちまちのうちにわたしは多幸感を味わい、夫と手を取り合って、イカズゴケ苔様をお支えすると誓ったのでした。それは結婚式での誓いよりも神聖で大いなる愛に包まれていて、すなわちわたしは、神を見ていた。
(続く)
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